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COLUMNSブログ「論語と算盤」

幸と不幸をわけるもの

2022年4月26日

じゅうけいこんり。せいそうきみ爲り。ここを以てくんは終日行くもちょうかず。榮觀えいかん有りといえども、燕處えんしょしてちょうぜんたり。如何いかんばんじょうしゅにして、身を天下よりかるんずるや。輕んずればしんを失い、さわがしければ君を失う。〔重爲輕根章第二十六〕

(重いという状態、重々しさ、これは軽々しさの根本である。つまり軽いものは、重いものから生ずる。静かな状態というもの、これはさわがしい状態の、君主、上に立つものである。言い換えればさわがしいものの根本は、遡れば静かな状態にある。

 徳のある人は、自分自身に重さを十分に所有するがゆえに、一日中行軍しても、そういう輜重、食物や着るものを積んだ車の間に身を置こうとはしない。

 きらびやかな美しい眺めはある。けれども、君子は自ら安んずるところに身を置いて、そういう栄耀栄華の世界に対して超然としている。

 どうして戦車一万台を出す、そういった大国の君主でありながら、自分の体を天下よりも軽々しいものとみなすのか。そういう君主はわが身をこそ、天下にも代えて大切に重んじなければいけないのだ。もしも、君主がわが身を軽々しくすれば、天下の人々を心服させることはできない。わが身をすら大切にしないのなら、それが人民、家来、そういったものを大切にすることはないだろう。だから、天下の人々を心服させることはできない。

 もし、そういう万乗の君主が、さわがしく落ち着きのない行動をするならば、君主としての地位を失う結果になるであろう。

 だから、静かということ、それから重々しいということ、これがとくに君主のもっとも大切なことである。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

重いことが主で、軽いことが従

 

静かが主で、騒がしいことが従

 

 

君子は、軽い言動や騒がしい振る舞いを控えねばなりません。

 

 

そして、君主、つまり組織のリーダーは、自らの体を大切にせねばなりません。

自らを粗末に扱う者が、他者を大切にすることなどありません。

部下や人民は、そんなリーダーに仕えたくはないのです。

 

 

 

両端にある事柄は、その本質を見定めることが重要です。

 

 

たとえば幸と不幸

 

幸と不幸は、自らの想い次第です。

 

 

 「普通は不幸が人間を苦しめるというが、よく考えて見ると、

人間を苦しめるのは不幸そのものではなく、

不幸だと思うその考え方自体である。」

 

 「人間としての真の幸不幸をきめる最後的のものは、

一にこの徳の有無大小などにかかっているようである。」

 

<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社>

 

 

徳を有し、その徳が大きいほど、その人生は幸せを実感できるものでしょう。

 

 

しかし世間では、自分の不幸を嘆く人が少なくありません。

 多くの場合、その人は“受動的”な想いをもっています。

  他人のせいにしたり、自分を取り巻く環境のせいにしたり。

   もちろん、自分の意志に反してそういう環境に置かれたのも事実でしょう。

    しかし、その環境をどう捉えるかで思いは変えられるはずです。

 

 

 

ある街に旅人がやってきました。

街角に佇む老人に、ここはどんな街ですかと尋ねました。

老人は、あなたが今までいた街はどんな風でしたかと、聞いてきました。

旅人は、不親切な人ばかりで嫌な街でしたと答えました。

すると老人は、ここも同じような街ですよと言いました。

 

別の旅人がやってきて、同じ質問をしました。

老人もまた同じことを問い返しました。

旅人は、親切な人に囲まれた素敵な街でしたと答えました。

すると老人は、ここも同じような街ですと言ったそうです。

 

 

自らの想いや考え方が、自らの幸不幸を決める

 

 

 

「人生は心一つの置きどころ」

 

            中村天風

 

 

 

環境に囚われるのであれば、それは“受動的”な生となります。

 

徳のある、幸せな生のためには、環境を“能動的”に創っていかねばなりません。