重は輕の根爲り。靜は躁の君爲り。是を以て君子は終日行くも輜重に離かず。榮觀有りと雖も、燕處して超然たり。如何ぞ萬乘の主にして、身を天下より輕んずるや。輕んずれば臣を失い、躁しければ君を失う。〔重爲輕根章第二十六〕
(重いという状態、重々しさ、これは軽々しさの根本である。つまり軽いものは、重いものから生ずる。静かな状態というもの、これはさわがしい状態の、君主、上に立つものである。言い換えればさわがしいものの根本は、遡れば静かな状態にある。
徳のある人は、自分自身に重さを十分に所有するがゆえに、一日中行軍しても、そういう輜重、食物や着るものを積んだ車の間に身を置こうとはしない。
きらびやかな美しい眺めはある。けれども、君子は自ら安んずるところに身を置いて、そういう栄耀栄華の世界に対して超然としている。
どうして戦車一万台を出す、そういった大国の君主でありながら、自分の体を天下よりも軽々しいものとみなすのか。そういう君主はわが身をこそ、天下にも代えて大切に重んじなければいけないのだ。もしも、君主がわが身を軽々しくすれば、天下の人々を心服させることはできない。わが身をすら大切にしないのなら、それが人民、家来、そういったものを大切にすることはないだろう。だから、天下の人々を心服させることはできない。
もし、そういう万乗の君主が、さわがしく落ち着きのない行動をするならば、君主としての地位を失う結果になるであろう。
だから、静かということ、それから重々しいということ、これがとくに君主のもっとも大切なことである。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
重いことが主で、軽いことが従
静かが主で、騒がしいことが従
君子は、軽い言動や騒がしい振る舞いを控えねばなりません。
そして、君主、つまり組織のリーダーは、自らの体を大切にせねばなりません。
自らを粗末に扱う者が、他者を大切にすることなどありません。
部下や人民は、そんなリーダーに仕えたくはないのです。
両端にある事柄は、その本質を見定めることが重要です。
たとえば幸と不幸
幸と不幸は、自らの想い次第です。
「普通は不幸が人間を苦しめるというが、よく考えて見ると、
人間を苦しめるのは不幸そのものではなく、
不幸だと思うその考え方自体である。」
「人間としての真の幸不幸をきめる最後的のものは、
一にこの徳の有無大小などにかかっているようである。」
<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社>
徳を有し、その徳が大きいほど、その人生は幸せを実感できるものでしょう。
しかし世間では、自分の不幸を嘆く人が少なくありません。
多くの場合、その人は“受動的”な想いをもっています。
他人のせいにしたり、自分を取り巻く環境のせいにしたり。
もちろん、自分の意志に反してそういう環境に置かれたのも事実でしょう。
しかし、その環境をどう捉えるかで思いは変えられるはずです。
ある街に旅人がやってきました。
街角に佇む老人に、ここはどんな街ですかと尋ねました。
老人は、あなたが今までいた街はどんな風でしたかと、聞いてきました。
旅人は、不親切な人ばかりで嫌な街でしたと答えました。
すると老人は、ここも同じような街ですよと言いました。
別の旅人がやってきて、同じ質問をしました。
老人もまた同じことを問い返しました。
旅人は、親切な人に囲まれた素敵な街でしたと答えました。
すると老人は、ここも同じような街ですと言ったそうです。
自らの想いや考え方が、自らの幸不幸を決める
「人生は心一つの置きどころ」
中村天風
環境に囚われるのであれば、それは“受動的”な生となります。
徳のある、幸せな生のためには、環境を“能動的”に創っていかねばなりません。