過ちを改むるに、自ら過つたとさえ思い付かば、夫れにて善し、その事をば棄て顧みず、直に一歩踏出すべし。過を悔しく思い、取繕わんとて心配するは、譬えば茶碗を割り、その欠けを集め合せ見るも同にて、詮も無きこと也。
(自分の過ちや失敗を認め、改めるのに、自分自身が「間違った」とさえ思い反省すれば、それで良い。その失敗にこだわったりせず、さっぱり捨てて、ただちに次の一歩を踏み出し前進するべきだ。
その失敗や過ちをいつまでも惜しいとか、くよくよと思い返し、あれこれと取り繕うとすることは、例えば茶碗を割ってしまって、その欠片を集め、つなぎ合わせてみるのも同じことで、何の役にも立たないことである。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
この教えを理解するには
一度本当に命を賭けて
死に直面せねばならぬものかもしれません。
西郷さんは、自らの人生で直面した苦難の末、この思いに至っています。
その前は、自分を見い出し導いてくれた
島津斉彬公が他界した折に殉死しようとしています。
また安政の大獄では、
京都清水寺の僧侶であった月照と二人で、錦江湾に身を投げています。
過去からの成り行きから及ぶ後悔に似た行動
それをなぜ完全に捨て去ることができたのか
西郷さんは二度の遠島処分を受けていますが
この逆境で自身が変化したためであろうと思います。
それは根本的な判断基準として
自分の問題なのか
はたまた日本の問題なのかということではないでしょうか。
島津斉彬公を慕っていた自分を消そうとし
安政の大獄で進退窮った自分を消し去ろうとした
しかしそこから、遠島の際の修練により
日本の将来をどう創り上げるか
捉え直したのではないでしょうか。
そのとき、自分だけが感じる後悔というものなど
全くもって取るに足らないものとして
捨て去ることができたのではないかと思います。
この境地に至るためには
自分の都合など全て捨てねばなりません。
つまり、後悔を捨てるということは
同時に自己も捨てることなのです。
そうしてはじめて
日本の将来のために
身近な人のために
人類全体のために
自己を投げ打って生きて行くことができるのです。
中国古典の四書五経、その四書の一つに「大学」があります。
薪を背負った二宮金次郎の銅像で
歩きながら読んでいる本
それが「大学」です。
大学の重要な教えの八条目は次のように解釈されます。
格物・・・人生でぶつかる多くの経験、体験
致知・・・その体験から得られる知識や深められる知恵
誠意・・・これらをもとに、正しいこと、誠の本質を理解する
正心・・・そして、素直な心、邪なしで善悪の判断ができる心
修身・・・この過程で自らの身を修め、他にも良い影響を及ぼす
斉家・・・その上で家をまとめ、斉える
治国・・・さらには組織や国を治めてゆく
平天下・・・以上を経た大人が増えることで、世の中を平和に導く
平天下を夢見て、治国のために邁進した西郷さん。
その生き様は、大学の八条目そのものです。