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COLUMNSブログ「論語と算盤」

道の中で己と対峙する

2022年4月8日

もの混成こんせいし、てんに先だちて生ず。せきたりりょうたり。獨立どくりつしてあらたまらず。しゅうこうしてあやうからず。もって天下の母とすべし。われの名を知らず。これあざなしてみちい、いて之が名を爲してだいと曰う。大をせいと曰い、逝をえんと曰う。遠をはんと曰う。ゆえに道大なり。天大なり。地大なり。おうた大なり。いきちゅう大ありて、王一おういつる。人は地にのっとり、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

(何か混沌とした物がある。それが大地より先に存在する。つまり、天地を生み出すものとして、何か混沌とした物がある。それは目で見ることも聞くこともできない。それ自体一本立ちして、永遠に変わることがない。大宇宙の中をあまねくめぐり歩いていて、疲れることがない。

 このものこそ、天下の万物の母と呼ぶことができる。私は、そのものの名前を知らない。無理にこれに仇名をつけて道という。道といっただけではそのものの本質を示すには足りない。そこで無理にこれに名前をつけて、大、偉大なるものと呼ぶ。大というだけでもまだ足りない。そこで逝く、往って帰らないものと呼ぶ。

 逝というだけでもまだその本質を言い尽くすことができない。そこでさらに名前をつけて、遠、永遠なるもの、遠大なるものの遠、遠いと呼ぶ。遠というだけでも、まだこのものの在り方を言い尽くすことができない。そこで、さらに名前をつけて反、反るものと呼ぶ。

 つまり、道は偉大である。天も偉大である。地も偉大である。人間世界の王者も亦偉大である。この大宇宙の中に、四つの大きなものがある。道と天と地と王。大宇宙の中に四つの大きなものがあって、人間界の王者はその一つである。

 人は地を手本とし、地は天を手本とする。天は道を手本とする。

 道は自然に至ってきわまる。その意味で、道は自然に法るという。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

自分は何者なのか、この人生、残りの人生、今日、何を為すべきか・・・

 

自らを深めるために、書を読み、考え、一つのことに気づければ・・・

 

自分の気持ちが落ち着きます。

 

 

周囲の状況や事件事故に心が揺さぶられることで

       感情によって行動が支配されぬようにし、

自分の意志に基づいた処し方、

言動を通していくことができるような気になります。

 

 

 

お釈迦様、釈尊の「てんじょうてんゆいどくそん」を改めて感じ入り、

 

まるでその心境に近づいたのではという気持ちにさえなります。

 

 

ところが、巨視的観点から自らを眺めると、

自分は単なる一つの生命体でしかないことに気付きます。

 

 

この世の始まりの混沌とした状態

そこから作られた宇宙と地球

そして極めて僅かな可能性が実を結び

生まれてきた一人一人の人間

そのうちの一人ということです。

 

このことは、まぎれもない事実、現実です。

 

 

道が万物の母であり、その道を逝く、遠くへ、そして反る。

 

これが自然ということなのでしょう。

 

 

 

であればこそ、自然に法った生き方はどういうものなのか

 

 

自分との対峙に尽きることはありません。