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COLUMNSブログ「論語と算盤」

フルコースの人生

2022年3月4日

げんは自然なり。ゆえひょうふうあしたえず。しゅうを終えず。たれれをすものぞ。天地なり。天地すらなおひさしきことあたわず。しかるをいわんや人に於いておや。故にみちに從事する者は、道は道に同じくし、德は德に同じくし、失は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦之またこれを得るを樂しむ。德に同じくする者は、德も亦之を得るを樂しむ。失に同じくする者は、失も亦之を得るを樂しむ。まことらざれば、しんぜざることあり。〔希言自然章第二十三〕

(もっとも短くて、しかも意味の深い言葉、これは「自然」の二字である。

 だから、つむじ風は天地のしわざではあるが、ひと朝も続かない。にわか雨を降らすのも天地のしわざであるが、これは一日と続かない。だれがつむじ風やにわか雨をもたらすか、それは天地である。天地の仕事ですら長い時間は続かないものである。まして、人の運命の浮き沈み、これはいともはかない。長い時間続くものではない。浮いたり沈んだり、損をしたり得をしたり、そういうものはほんのつかの間の現象である。

 だから、道を学ぼうとする者は、行くべきときは自分も行くことに同意する。何かを得べきときには、自分も得ることに同意する。損失をすべきときには、自分もまた失うことに同意する、納得する。

 行くことに同意した以上は、自分も行くことを楽しむ。得ることに同意した以上、自分も得ることを楽しみとする。それから失うことに同意した以上は、自分もそれを失うことを楽しみとする。

 このことは、信じ切ることが必要なので、いささかでも以上のことを信じる、その信に欠けるところがあれば、自分自身疑い、迷いが出てくるであろう。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

本田氏によると、何を言いたいのかわかりにくい章とのことです。

 

特に最初の言葉、

   「希言は自然なり。」についての解釈が色々とあるようで、

どれも続く文章につながりづらいと述べられています。

 

 

 

つむじ風やにわか雨、

これらは天の仕事なのですが、一日と続かないものであると。

 

天の仕事でさえ長時間は続かないのだから、

人の人生の浮き沈みも長くは続かないとのことです。

 

 

もっともな言です。

 

 

天は、端から端まで、重箱の隅さえさらわんばかりに、

気候の変化や地殻の変動を生じさせます。

 

それが天の振る舞い、仕組み、役割なのでしょう。

 

 

 

その天によって生み出された私たち。

 

その容姿、その隣人、その地域など、

自分で選んで生まれ落ちたという人は一人もいません。

 

 

 

そして、死のときを知る人もいません。

 

つまり、生かされているのです。

 

天の大なる力によって。

 

 

 

生きて、歩んでいく人生には、様々な局面があります。

 

良いと思えるときもあれば、悪く思えるときもあるでしょう。

 

しかし、それらは多くの場合、常識や平均にもとづいた価値観です。

 

 

金銭的な裕福さを追い求める人生は、

死の間際に、残した財を持っていけないことに気付き、

空しさを覚えることでしょう。

 

逆境に悶え、不運や災いと対峙していく中、

    人生の原理原則がつかめたのなら、

死という出口においてさえ、悠然と構えられるのではないでしょうか。

 

 

 

安岡正篤師は言われます。

 

~艱難辛苦、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、

 

        全てを嘗め尽くしてこそ人生~

 

 

 

人並みの生活ができているみたい、人と比べて中の上くらいかな、

などと安堵する現代の生ぬるい価値観。

 

 

それから外れることを恐れてはいけません。

 

 

 

何かを得られるときには素直にそれを得

何かを失うときには素直にそれを失う

天道の原理原則を信じて身を任せること

 

これが味わい尽くすための心構え。

 

 

 

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