子曰わく、君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義に之れ與に比う。
(先師が言われた。「君子が政治にあたる時には、是非ともこうしなければならないと固執することもなく、絶対にこれはしないと頑張ることもない。ただ道理に従っていくだけだ」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
道理に従う政治のためには、道理に従った判断を下す必要があります。
では、道理とは何でしょう。
どこに書いてあるのでしょうか。
人の判断は様々で、そこにその人の思いが顕れます。
人生の長い期間、その判断を続けるわけですから、
自ずとその人の思いが、その人の人生を形作ることになります。
その人の判断は、自分が考える良い選択、つまり自分基準ですが、
それが一貫しているかというと、そうでもないことの方が多いでしょう。
また、他の人が賛同できるかという点においても、少なからず困難さが伴うでしょう。
それに比して、君子は、必ず道理に沿った判断を下すことが必要であると、
孔子は逆に要求しています。
君子の政治は、道理に沿った判断であると、
誰もが納得できるものでなくてはならないというのです。
そこに自分基準は存在しません。
そして、道理を教えてくれる教科書もありません。
では、どうやって道理を学び取り、それに沿った判断を常に下せるのか。
令和3年、4年と、続けて五輪が開催される運びになりました。
五輪選手の戦う姿は、色々なことを教えてくれます。
ある講演会で、アーティスティック・スイミングで長く指導されている井村雅代さんが、才能なんて数えればいくらでも項目があると言われていました。
そしてそれらを全部持っている人なんていないし、
多く持っている人が伸びるわけでもないそうです。
才能という言葉を口に出すのは、親が子供を、あるいは
自分で自分をあきらめるときの口実だそうです。
お話を聞き、頂上に辿り着く人は、
才能というより、誰よりも強い意志と意欲があり、
そのために努力し続けられる情熱を持つ人と感じた次第です。
そんな自己との戦いの中、五輪選手は、日々“石”を積んでいます。
それは、自分に課した鍛錬であり、頂上に手をかける“山”を作るためです。
それに対して普通の人は、“時折石を積み”ます。
その日の気分や都合次第です。
しかし、それも自由意思、その人の歩みであることに変わりはありません。
同じ人生、同じ条件
ここにおいて、「良くなろう」と思うかどうかが、
その人の人生の分岐点であることがわかります。
積めば良くなり、積まなければ、“山”はできないのです。
君子も日々、“石”を積み、“山”を作ることで、
道理に従った政治が可能になるのでしょう。