敬を持する者は火の如し。人をして畏れて之れを親しむべからしむ。敬せざる者は水の如し。人をして狎れて之れに溺るべからしむ。〔晩録一七四〕
(常に慎み敬う態度でいる人は火のようなものである。
人は畏れるけれども、親しむべき人として敬う。
慎み敬うことをしない人は水のようなものである。
慣れ親しみやすいけれど、人から馬鹿にされてしまう。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
あらゆる組織のリーダーは、敬を持する者でなければなりません。
この言葉を読んで、自分は“敬せざる者”ではないから大丈夫と感じるのは早計です。
視点を深くもって読むと、自己修養が必要であることがわかります。
たとえば、各種の会議や会合で、
何やら漠然としない議題が決まりそうなとき、あなたならどう振舞いますか。
よくわからないから適当に賛同しておこう、
口を合わせておけばいいだろうというのであれば、
既にあなたは“敬せざる者”です。
いえいえ、自分は慎み敬う態度をとっていると言うのなら、
それは単に、他者に合わせようとするだけのお化粧のような行為かもしれません。
真の意味での“慎み敬う”態度でしょうか。
自分一人だけで異論を述べたり、
初歩的な質問を投げかけたりすることが、あなたはできますか。
それができずに、場の雰囲気に流されるのは、
自らが自らに対して慎み敬う態度ではない、つまり自分をごまかしている状態です。
自分一人でも、異論や質問を発し、全員が納得した決定事項になるのであれば、
そういうあなたを、他者は畏れるけれど、親しむべき人として敬うのです。
そこまで考えず、適当にお茶を濁す言動に終始するのは、
前述のごとく自分をごまかす行為であり、
そしてそれは他者からはっきりと認識されるため、
あなたは軽んじられるのです。
今日の言葉の後段の現代語訳で、人から馬鹿にされるという文言がありますが、
個人的な感覚からは、もてあそばれている状況が思い浮かびます。
飲み会やゴルフの人数合せに誘われて、嬉々としていて良いのですか。
あなたの人生の一コマという大切な時間なのに。
幼い頃、単に仲間に入りたい、認められたいというような同級生に対して、
直観的に忌み嫌う感情が生じたことを記憶しています。
20万年前のホモサピエンス誕生から培われた、
人類の知恵、遺伝子に組み込まれた直観かもしれません。
媚びを売る、迎合するという行為は、失礼な態度と認識すべきかもしれません。
なぜなら、相手の人格や徳を無視して、
拙い我を主張する行為、その場の価値を蔑ろにする言動となるからです。
もう一つ、虚勢を張るというのも浅ましく見苦しい態度です。
自分に中身がないことを気付かれないように、隠すことだけで精一杯、
ただし、周囲の人ははっきりと認識しているものです。
知識が無くても何ら恥じることはありません。
なぜなら、その知識習得レベル(例えばIQ)で良しとしたのは、
その人の責任とは言い切れず、天地創造の神によるところが中心だからです。
しかし、自らが人生の中で学ぶべき人間学の要素が、
その人生経験に比して不足するというのであれば、
これは恥として認識せざるを得ません。
単に学校を卒業しただけの取るに足らない小人。
社会人は、社会に対する責任があります。
自らが関わる領域において、小さなことでも疑問がある場合には明らかにし、
周囲の人と協力し合って社会を良くしていくという責務があります。
そのことを明確に認識している人こそ、真のリーダーではありませんか。
上述した、媚びを売る者、迎合する者、虚勢を張る者、小人、
こんな輩がリーダーであるというのは、明らかに社会的損失です。
ただし、そうしてしまった周囲の人にも責任があることを忘れてはなりません。
拙い我に、自分の人生の主導権を渡してはなりません。
自らをごまかさずに周囲に働きかける言動こそが、
自分に正直に生きることであり、
意義ある、納得できる、生き甲斐ある人生につながるはずです。