何程制度方法を論ずる共、その人に非ざれば行われ難し。人有て後方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己れその人に成るの心懸け肝要なり。
(どんなに制度や方法を論議しても、それを実際に政策として行う人がいなければならない。その実行する責任者が、立派な見識を持った人物でなければ、その政策は上手く行われないだろう。
だから、その立派な人物があって初めて、さまざまな政策、制度が生きてくるものだから、人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるよう心がけるのが、何より大事なことである。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
あらゆる組織、集団を動かす中心は人。
手順や規則などを決めれば、それでうまくいくと考えるのは軽率です。
しかし、自省を含めて、経験が浅いような場合などはそれで良しとしてしまいがちです。
西郷さんの言う「その人」とは、
訳者による「立派な人物」そのものでしょう。
少し前、「立派な人」と「偉い人」の違いについて考える機会がありました。
「立派」と「偉い」の違いを辞典で調べるのが普通でしょうが、
訳あってそうはしませんでした。
・偉い人とは・・・崇められる人、最後まで頑張れる人、
社会的地位が高い人、人を使う人、
社会的資源(ヒト・モノ・カネ等)を動かせる人、助けてくれる人
・立派な人・・・人として尊敬される人、信頼される人、
人を活かす人、人に親切にできる人、
生きる力を与えてくれる人、一人で立つ人
こう考えました。
考えたきっかけは、
ガッツ石松さんが中学卒業後に一度上京し、打ちひしがれて故郷に舞い戻り、
その後改めて挑戦しようと上京を決意した際に、
お母さんから言われたという言葉です。
「偉い人間なんかにならなくていい、立派な人間になれ」
<出典:「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」
藤尾秀昭編 致知出版社>
貧しい生活の中、息子を高校にも行かせられなかったお母さんにとって、
この言葉に込められた意味、そして思い、願いはどういうものだろうと、
その心情を感じたかったのです。
決して、偉い人物を嫌っているわけではないでしょう。
ただ、偉い人をめざすと、人の目、常識、周囲の状況、そして運にも左右され、
さらに他者との争いや無益な競争も必要になるでしょう。
やっとの思いで、自分が思い描いた状況に達したとしても、
あっと言う間にそこから転落する可能性も少なくありません。
おそらく、そんなことはしなくて良いから、人の役に立ち、人を裏切らず、
天に胸を張れるよう、きちんと生きていってほしい、
そんな切なる気持ちだったのではないかと感じた次第です。
「誠の人間というものは、
彼の義務が要請する時と場合においてのみ、世の舞台に出なければならぬが、
それ以外は退いて家庭にかえり、少数の友人と交わり、尊い書籍に学んで、
なるべく人知れず生きるべきである。」
<出典:「立命の書『陰騭録』を読む」安岡正篤著(致知出版社)より
ゲーテの畏友マックス・フォン・クリンゲルの言葉として>
大きな舞台でなんかでなくて結構、小さく狭くて十分
立派に生き抜く日々を積み重ねたいものです。