大道廢れて仁義あり。智慧出でて大僞あり。六親和せずして孝慈あり。國家昏亂して忠臣あり。〔大道廢章第十八〕
(真実の道が廃れて、はじめて儒家で言うところの仁とか義とかいう、そういう道徳の名目ができる。それは、たとえば人の知恵がいよいよ発達すればするほど、たいへんな詐欺が発生する。それから親子、兄弟、夫婦、そういった親族関係、本来その中に存在する親しみというものが失われて、はじめて孝とか慈とかいう道徳律が発生する。それから国家が乱れて、はじめて忠義な家来、忠臣というものの存在が意識される。それと同じことである。それらをひっくるめて、大道廃れて仁義ありと、そういう。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
真実の道が行われているとき、
仁、あるいは義というような道徳的名目が目立つことはありません。
大道の中に普通に在るからです。
にもかかわらず、仁や義の重要性が語られるのなら、
それは大道が薄まって世の中が乱れ始めたときとなります。
その乱れは偽りや詐欺の追い風となります。
知恵は人類の進化にとって必要かつ重要な力ですが、それが悪用されるわけです。
さらに世の乱れが進めば親類間の仲の良さが失われ始めますが、今度はそれを戒めるために親に孝行し子を慈しめというような道徳律が叫ばれることになります。
やがて国家の混乱に到り、そのとき初めて忠臣が現れるとのこと。
これを逆に見れば、
仁義が重要視される世の中は、仁義が失われていることの裏返し、
同様に詐欺的行為が広がるのは知恵の使い方が正しく教えられていないことの、
親孝行や子への慈愛が叫ばれるのはその関係が乱れていることの、
忠臣がその姿を表すのは国家がうろたえていることの、
それぞれの裏返し、証となります。
いまの世は、いかがなものでしょうか。
仁や義を意識している人は少ないでしょう。(※)
ただしこれは、道が正しく行われている状態を表しているのではなく、
意識されなくなりすぎて、
言葉とその内容が離れ離れになっているだけです。
今日、詐欺のような行為は日常茶飯事であり、
親子関係は胸の痛むような事件ばかり・・・。
国家となれば、たとえば最近の文書通信交通滞在費の問題、
過去から問題視されていたにもかかわらず、
与野党ともにほったらかしだったわけです。
政治は、政治では修正できない。
渋澤栄一翁の家訓に、「政治家になるな」というものがあるそうですが、
このような自浄力の無さを憂いたが故のことなのでしょうか。
政を司る者が自己の利益を得ようと結託してしまうと、
外部からは誰も正すことができない仕組みは、
それはそれで問題ではあります。
しかし、重要なのはそうなる前の忠臣による諫言です。
国家の忠臣の一人は、国民です。
国民は、欲や権力に阿る政治家という人々に対し、
彼らの足元を照らしてあげねばなりません。
くれぐれも、政治家を崇めてはいけません。
政治家を崇め、信用し、全てを任せてはなりません。
それで問題が生じたら、それは 国民の怠慢だと言われても仕方ないのです。
あるべき姿は、政治家を「使いの者」として国民がコントロールすること。
私たちは、それぞれ日々の仕事や生活があるということを理由に、
政治家を安易に信頼して任せてきました。
しかしながら、それは危険性を孕んでいます。
任せきりは少しずつ濁りを生み、やがて大きな問題へと発展しかねません。
物理学には精通していませんが、熱力学の第二法則のひとつ、
「エントロピーの法則」を思い出します。
「物事が生じたときに保有する秩序は、
放っておけば無秩序化し、自発的にはもとに戻らない」
放っておいては、もとの正しい道、大道へは戻れないのです。
皆で手当てせねば。
※仁:もとは外見の見栄えの良さのこと。孔子が内面化した。「自分の心内の欲求を自覚し、それを基にして他者の心中を思いやること」。
※義:もとは秩序に則るという意味合い。仁が遠心的に他者に向かっていく心情であるのに対し、義は静的な秩序、あるいはその秩序を維持する心性をさし、求心的な印象となる。仁と義は相補的関係。
<上記※の引用:「儒教入門」土田健次郎著 東京大学出版会>