古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言えば忽ちに怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。
(昔から、主君と臣下がそれぞれに「自分は完全だ、自分は欠点がない。十分に働いている」とうぬぼれて、その国の政治を行った世にうまく治まった時代はない。
君主と言えど、家臣と言えど、「自分にはまだ足りない点がある」と考えるところから初めて、民衆の言うことも素直に聞き入れられるものである。
「自分が完全だ」と考えている時に、ほかの人から自分の欠点、足りない部分を指摘されたりすれば、すぐに怒りだすだろう。
だから、本当の賢人や君子というような立派な人は、おごり高ぶっている者に対して、決して味方はしないものである。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
何事も上手くいく時期というのが、ときにはあるようです。
竹村亞希子著「人生に生かす易経」(致知出版社)によると、易経は、国や人生がどのように発展し、どういった場合に没落するのかについて、「龍」の変遷になぞらえて説明しているとのことです。
具体的には、潜龍、見龍、君子終日乾乾す、躍龍、飛龍、亢龍という六段階それぞれにおける客観的位置づけや、各段階における必要な心構えなどが示されています。
中でも、世に出て最高に活躍する段階が“飛龍”であり、何をやっても上手くいき、チャンスが向こうからドンドンやってくる、必要なものが全て揃い、自らが台風の目の中心という状態です。
ここで調子に乗って傲慢になると、
急転直下で最終段階の亢龍に落ちてしまいます。
しかしながら、人の性というのはそういうものですね。
何もかもが自分の思い通りに上手くいくのなら、確固たる自信が根付くでしょう。
自分こそが正しいと感じるのも至極当然なことです。
そうなると、
自分の意見と相違するのは間違った考えだと判断し、耳を貸さなくなります。
ところが、その人の“飛龍”の状態というのは、
もともと必然的な世の流れに沿った経緯であり、
その結果の姿ということでしかありません。
よって、傲慢な意識に基づいた振る舞いが増えるに従って、
誘われた必然的な世の流れから徐々に乖離し、落ちぶれていくのです。
その人の意見が正しい、間違い、というような問題ではありません。
栄えた者は必ず衰える、栄枯盛衰を表しているのです。
古典の教えは、全くもって、現代にも通用します。
さて、西郷さんの思いは、地位が上位になろうとも、常に自省して、配下の者や民衆の声にしっかりと耳を傾けなければならないということです。
ただ、西郷さんも含め、この時代を生きた多くの人は、
古典を学んでいたものと思われます。
にもかかわらず、西郷さんが敢て指摘せねばならない、
嘆かなくてはならない、なぜそうなるのでしょうか。
同じような現象なのか、現代においても、せっかく出世したのに、
残念な言動で消え失せていく人が相当見受けられます。
やはり、学ぶことと実践は違うということの一端でしょうか。
上手くいっているときこそ、諫言してくれる人が必要です。
ただし、本人と諫言者の両者が共に、
修養し、また修養し続けるという人物でなければならないでしょう。
最後に、貞観政要の言葉を参考にしたいと思います。
「木、縄に従えば則ち正しく、君、諫に従えば則ち聖なり」
~どんなに曲がった木でも墨縄に従って切ればまっすぐになるし、
どんな君主であっても、
諫言を呈する家臣に従えば聖なる君主になれるものです~
(王珪)
<出典:「新装版 貞観政要 上に立つ者の心得」矢沢栄一、渡部昇一著 致知出版社>