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COLUMNSブログ「論語と算盤」

主体性と個性、従属性と規格化

2021年11月12日

何某、大阪へ数年相勤め、罷下り、請役所へ罷出で候節、上方口かみがたぐちにて物を申され候に付、無與千万の物笑にて候。それに付、江戸上方へ久しく詰め候節は、常よりも御国口を開き申すべき事に候。おのづと其の風に移り、御国方の事は田舎風と見おとし、他方に少しも理の聞こえたる事の候時は、それを羨み申す儀、何の味も存ぜず、うつけたる事なり。御国は田舎風にて初心なるが御重宝に候。他所風まね候ては似せ物にて候。或人春岳へ「法華宗は情がこはき物にて宜しからず。」と申され候。春岳申され候は、「情のこはきゆゑ法華宗にて候。情のこはくなければ他宗にてこそ候へ。」と申され候。尤もの事に候。

(某氏が大阪で数年の勤務を終って国もとへ帰り、役所に出頭した際、上方言葉でものをいったので、これは誠に不心得のことと、もの笑いの種子とされたことがある。

 江戸や上方に久しく勤めている際には、むしろ平常以上にお国の言葉を使うべきものである。江戸・上方に出ていれば、自然とその気風に染まって、お国のことは田舎風と見下し、よそのことで、少しでも理屈にかなったことでもあれば、その方をうらやむなど、何の気骨もなく、不心得千万のことに思われる。

 お国ぶりは、万事田舎風で、素朴なところが何よりの宝なのであって、よそのさまをまねて見たところで、それは所詮、にせものに過ぎない。ある人が春岳和尚に「法華宗は強情な気風の宗旨なので好ましくない」といわれたところ、和尚は「強情なればこそ法華宗を信仰しているので、強情の気風がなければ他の宗旨で結構であろう」といわれたというが、まことにもっとものことといえよう。)

<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

前段の話は、18歳で高知から関東に出た身として実感します。

 

夏休みの帰省時など、絶対に標準語をしゃべらないように気を使ったものです。

 

その一方、上京したときは土佐弁を出さないように注意しました。

 

 

この点、葉隠は、むしろ積極的にお国の言葉を使えとのこと。

 

そうでなければ何の気骨もない不心得者とのこと、耳が痛いです。

 

 

 

 これらは30年以上前の話なのですが、近ごろ帰省したときに感じることがあります。

それは、旧友の語りや街角のおしゃべりなどを耳にしたとき、

土佐弁がかなり薄まって・・・・きているということです。

 

 

ある人は私にこう指摘しました。

 

「あなたの土佐弁はかなりきつい、古いね」

 

 

 これは違います(笑)。

恐らく、気づかぬうちにその人の土佐弁の「角」が削れているためだと思います。

 

 なぜなら私の土佐弁は、この30年間、年に数回の帰省を除きほとんど封印されているからです。

言うなれば、アルプスの氷河で見つかった「アイスマン」と同じなのです。

(アイスマン:1991年にアルプス山脈のエッツ渓谷で見つかった5300年前の男性のミイラ)

 

 なんとなれば、中高生のころ、

私の土佐弁がきついなどという人はいませんでしたのでね。

 

 

 

 ただ、それはそうとしても、帰省時に若い人たちの標準語にかなり寄った

土佐弁らしき語りを聞くとやはり寂しくなります。

 

 もちろん、お国の言葉が「標準語圏に地滑りしていく」現象は時代の流れでもあり、それに乗らないのは、その土地の人にとってはあり得ないこと、不可逆なものなのでしょう。

 

 

 

 それはさておき本題は、春岳和尚による法華宗のくだりのところです。

 

強情さこそが法華宗の特徴、個性であり、そこから生じる教えが法華宗ということ。

 つまり個性や主体性を持ってこその価値なのです。

 

個性がなく他と同じなら、宗派などいりません。

 

 

 会社組織も同じです。

 

 例えば銀行。

巨大なA銀行とB銀行がそれぞれ存在するのは、

その経営理念や使命が違ってこそです。

 

 もし特段の違いが無いのなら、

速やかに合併して一つになってもらった方が、

消費者にとっては使える窓口やATMが増えるため便利になります。

 

 

 もちろん、他の業界も同様です。

 個性や主体性が無いのなら、その会社には価値が見出せません。

すると、社会への貢献さえ怪しくなってきかねません。

 

 

 

今回の題名は「主体性と個性、従属性と規格化」。

 

「主体性と個性」が行き過ぎると排他性や独善を生みかねません。

 

(ちなみに、「近世末期から近代初期にかけ、諸藩に先がけてもっとも早く近代科学技術を取り入れたのは、“葉隠精神”に指導された佐賀藩であった」そうです。~引用:同前、編著者の解説より~)

 

 

 しかしその一方、日本の国土や人々の気風においては、

あらゆるものの規格化が進み、

そして従属性が根付いているのではないでしょうか。

 

 

 他人と同じであることや、同列であることに執着するのは、

主体性や個性が持つ排他性や独善などと、同じような危険性をはらんでいます。

 

 例えば以前、学校の運動会で全員が手をつないでゴールする

ということが話題になりました。

 

 このような反競争的な教育で育った人は、実は意外にも、利他性、互恵性、協調性などの選好を持つ可能性が少ないという実証論文があります。

20145月「隠れたカリキュラムと社会的嗜好」伊藤高弘 (神戸大学)他)

 

 

 

 

一方だけが行き過ぎると、必ず反動が求められ、やがて出現します。

 

易経の教えである陰と陽も同様で、

 陰ばかりの世の中、陽ばかりの世の中はあり得ないとされます。

 

 

近年、国内のほとんどの場所が同じ景色になってきています。

そして言葉も標準語に寄ってきています。

 

 

これからは、個性と主体性、人との違いが重宝される時代

 

平均に埋もれず、他人との違いを大切にし、主体性ある人生を築きましょう。