子曰わく、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、處らざるなり。貧と賤とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。君子は仁を去りて悪くにか名を成さん。君子は食を終るの間も、仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於てし、顚沛にも必ず是に於てす。〔里仁第四〕
(先師が言われた。「人は、一般に裕福になり高い地位に登りたいと願うものである。然し正しい人の道によって得なければ、それには満足できない。貧困にはなりたくなく、低い地位にはおりたくないというのが人情である。然し君子は正しい人の道によらないで貧困から逃れようとはしない。
君子は、仁の道から離れてどこで有徳の立派な人物だと称えられようか。君子は、食事をする短い間も、あわただしい場合でも、つまずいてひっくりかえるような時でも、必ず仁の道から離れることはない。」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
富を得ること、貴ばれること、これらの願望は、多くの人が普通に抱くものです。
ただし、それが実現する道のりは色々あるでしょう。
一つは、仁に基づいた正しい人の道から到達する経路が想定できます。
人を助け、救い、社会に役に立つ、身近な環境の良化に貢献し、それを生み出す、こんなことを実践する途中経過として富や貴が集まるという道のり。
もう一つは、タナボタ、例えば宝くじに当たるような経路もあるでしょう。
たまたま富を得る、貴ばれている家に生まれる、そういう家に養子等で入る、というような道のり。
後者の場合は、その富と貴を享受しないというのが仁の道とされます。
かのお釈迦様は、国王の家に生まれたけれども、
出家して修行の道を歩んだのです。
また、仁に基づいた道を歩んだ末に、
いわゆる表面的な貧賤という境遇に陥ったとしても、
そこから逃れようとしないのが仁者です。
裕福になること、他者から貴ばれること、これらは時の流れの途中経過、
あるいは見方によれば欲望であり、そして他者評価でもあります。
この世に生まれた、ただ一人の自分、
つまり「天上天下唯我独尊」の考えからすると、
表面的な欲望を追ったり、他者の評価を気にして過ごしたりという日々は
人生の浪費です。
仁者としての生き方、そうでない生き方、どちらを選びますか。
故安岡正篤師が、よくお話された言葉として目にした内容です。
「戦場で第一線から遠ざかった場所では人はつまらない雑誌か小説を読んでいるが、
だんだん戦線に近づいてくると、そういう本はバカらしくて読めなくなる。
真剣に精神的な書物を読むようになる。
本当に生命に響くものを求めるようになる。」
<出所:『人生の法則』致知出版社メルマガ>
自らの人生の終局を想定したとき、自ずと答えは出てくるのでしょう。