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COLUMNSブログ「論語と算盤」

“いま” このときを

2021年10月29日

心は現在なるを要す。事いまきたらざるに、むかうべからず。事すでけるに、追うべからず。わずかに追い纔かに邀うとも、便すなわれ放心なり。〔晩録一七五〕

(我々の心は今この瞬間にすべて傾けなくてはいけない。事柄がまだやって来ていないのに、これを待ち受けることはできないし、すでに過ぎ去ってしまったことを追いかけることもできない。ほんのわずかでも過去を追ったり、未来を迎えたりするのは、本心を失っているということである。)

<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

自分のあるべき姿に向かって進み続ける

 

なんと素晴らしいことか

 

 

自分のあるべき姿が明確になれば、それに向かって前進できます。

 

 

 あるべき姿が無ければ、“いま”動くことができず、

過去を後悔したり未来に不安に感じたり、悲観的になるでしょう。

 

 

過去にも引用しましたが改めて・・・

 

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」

(フランスの哲学者アラン・・・本名エミール=オーギュスト・シャルティエ 1868~1951)

 

 

 なすがまま、悲観主義の渦に巻き込まれるのではなく、

自らの意志であるべき姿を描き、楽観的かつ肯定的に“いま”に処すことが

意義ある美しい生き方です。

 

 

 

“いま”を大切にできるもう一つの可能性は、

愛する対象があるかどうかでしょう。

 

愛する対象は、人生の中で最も大切な存在の一つです。

 

“いま”その対象を愛すること、それはとても重要なはずです。

 

 

 

真剣に生きることは、“いま”を生き抜くことにほかなりません。

 

 

 

 故森信三先生が、著書「修身教授録」の中で「誠」について語っておられることが同じような意味合いに感じます。

 

  「~真のまこととは、常にその時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、

   しかも常にその足らざることをなげくものでなくてはならぬからです。

   その意味からは、誠はまた綱渡つなわたりにたとえることもできましょう。

   そもそも綱渡りというものは、

決して途中でとどまることのできないものであります。

   つまり向こう側にたどりつくまでは、どうしても常に進まねばならぬのです。

   同時に綱渡りで向こう側へたどりついて「やれやれ」とホッとするのは、

これを人生で申したら死ぬ時です。」

 

<引用:「修身教授録」森信三著 致知出版社>

 

 

 

 日々の“いま”この瞬間を生き切る、それを明日も、生きている限り・・・。

 

森信三先生はさらに「真に生き切った時、人生には何の心残りも無いはず」とのこと。

 

確かに、そのとおりと感じます。

 

 

 

 飽きることない「あるべき姿」を描くこと、

心から愛すべき対象を得ること、ともに容易ではありません。

 

 しかし、それを求めていくこともまた、

 

真剣な“いま”につながるはずです。