談、国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るる共正道を践み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也。
(話が国のことに及んだ時、(南洲翁が)大変に嘆いて言われた。
外国から国の名誉がはずかしめを受けるようなことがあったら、「国が倒れてもよい」というような覚悟で、道理を守り正義を貫くのが政府の責務である。
それなのに、普段は金銭、農政、財政のことを議論するのを聞いていると、「なんという英雄、豪傑なのか」と思われるような人物が、実際に血の流れるような事態に臨むと、皆で頭を寄せ集め、こそこそと話し、ほんの目先の気休め、安全を確保することしか考えず、その場しのぎに懸命になるばかりだ。
「戦」の一字を恐れるあまり、政府の責務を果たさず、国の名誉をおとしめるようなことがあったら、これはもう「商法支配所」(経済監督所)とでもいうような存在で、とても政府とは呼べない。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
西郷さんの基本的な思考、物事に対する姿勢が感じられる談話です。
訳者の桑畑正樹氏によると、この談のせいで、
西郷さんが好戦的な姿勢という誤解を生んだようです。
しかし、西郷さんの言いたいことは、「戦を恐れるあまり、政府の本分を果たさないこと」の批判であり、政府のそのような事なかれ主義を非難したものであるとのこと。
思うに、西郷さんの本心は、
ギリギリの選択においては、「最悪の事態」を想定した上での決断が必要
ということだと思います。
ところが、「最悪の事態」の想定を避け、次元を低めたその場しのぎの諂いや妥協を念頭においた対処では、それ自体が国の名誉を手放すことになるでしょう。
人類は世界大戦を二度経験してきました。
その教訓は、戦を避けた平和の尊重であり、これは何ものにもかえられません。
近年の外交交渉では、例えば領空海侵犯に対して、まずは正当な抗議を行い、その後に、問題がこじれた場合の経済的悪影響、世界の注視と批判の可能性、第三国の介入予測など、お互いの立場に立った多面的な視点からの交渉により、無難に収めているように映ります。
もちろん、ことはもっと複雑で、そのための各種の工夫もあるのでしょう。
争いごとを起こさないためには、有益な交渉方法と感じます。
ただし、このような交渉に関する内容が国民に見えなければ、
国民は妥協によって収束させたと誤解してしまうリスクがあります。
国際的な協調と対立に対して、安易な思考が根付いてしまいかねません。
必要以上に国民のナショナリズムを高めることは危険でしょうが、
逆方向に行き過ぎても問題です。
ギリギリの選択を行うとき、最終状態にまで踏み込んだ上での決断か、
はたまたその手前での決定なのか、
そこがあやふやになってしまうと、人々の生きる姿勢、それ自体が融解しかねません。