我が言語は、吾が耳自ら聴くべし。我が挙動は、吾が目自ら視るべし。視聴既に心に愧じざらば、則ち人も亦必ず服せん。〔晩録 一六九〕
(自分の言葉は自分の耳で聴くがいい。自分の立ち居振る舞いは自分の目で視るがいい。
自分の目で視、自分の耳で聴いて、心に愧じるところがなければ、人もまた必ず従うだろう。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
「人のふり見て我がふり直せ」という言葉もありますが、
自分自身で確認して正せとのことです。
語りや振る舞いは自分ではなかなか確認しづらく、また他人が指摘してくれることもそうそう滅多にありません。
だからこそ、自分で意識して正していかねばならないというわけです。
自らを省みると、人前で立って話す機会が多いため、
まさに実践せねばならない輩なのでしょうが、全くできていません。
文明の利器は私の身の回りにたくさんあり、音声や映像は簡単に記録できます。
それが面倒なら、鏡でもちょこっと確認できます。
にもかからわらず、です。
ただ、自分の言動を自分で見ることには結構な抵抗感があります。
多くの人がそうではないでしょうか。
だからこそ実践せよ、ということですね。
それにしても、この時代(1800年前後)に自分の言語と振る舞いを、
どうやって確認しようとしたのでしょう。
便利な機材はないわけですから、いまより相当苦労が伴ったであろうと想像します。
しかも、そこまでして、他者から見た自らの言動を正そうという心構えにも驚かされます。
古典を読んでいると、
かの時代にそこまで考えているのかという感情が頻繁に生じます。
いま私のブログでは、論語、老子、葉隠、西郷南洲遺訓、そして言志四録、
ときおり易経をさしはさむという形式で6つの古典を取り上げていますが、
全て現代に通じる事柄、というより、
現代においてさえ課題とされていることが非常に多く出てきます。
100年、200年の時代を経て、私たちは何も解決できていない、学んでいない、教訓を得ていないという事実を突き付けられて、愕然とするしかありません。
今日の言葉の様な基本的事項に対して着実に手当していかないと、
何千年たっても人類は進歩しなかったということになりませんでしょうか。
我に問う、まさに自省になりました。
まずは少しでも、自分の言動、振る舞いを確認してみます。
いかがでしょう? あなたならまず、どこをどう直していきます?