何某、当時倹約を細かに仕る由申し候へども、宜しからざる事なり。水至つて清ければ魚棲まずと云うことあり。藻がらなどのあるゆゑ、其の陰に魚は隠れて、成長するなり。少々は、見のがし聞きのがしある故に、下々は安穏なるなり。人の身持ちなども、此の心得あるべき事なり。〔聞書第一 教訓〕
(某氏は、やかましく倹約を説いていたが、これは好ましいことではない。水があまりに清ければ、魚がすめないということがある、水藻などがあるからこそ、魚はそのかげにかくれて成長することもできるのだ。
いささかのことは、見のがし、聞きのがしておくことによって、下々の者は安心して暮らすことができるのだ。
人の素行などについても、この心得が必要である。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
規則や決まり事を口やかましく取り締まろうとすると逆効果になりかねません。
規則などを決める人々は、それが必要だからと真剣に考えて決めているはずです。
だから一所懸命それに従わせようとするわけです。
一方、それを要求される方は、取り決めまでの経緯や理由を簡単には理解できません。
理解できれば話は変わるかもしれません。
つまり、規則に反発する人が仮に取り決めのメンバーであったなら、取り締まる側に回る可能性は十分にあります。
学校の校則を生徒自らが決めるような取り組みは、このような効果が認められます。
しかしそうでなければ、取り締まる側は一から取り決めの経緯や理由を説明して説得しなくてはならなくなり、反発する側は今さら素直に従うわけにもいかなくなります。
結局は意見の行き違いや感情の温度差が表面化して
対立を生んでしまう可能性があります。
二宮尊徳(二宮金次郎)は、天道と人道を混同してはならないとしています。
天道は、生気あるものを全て発生させます。
生きようとするもの全てを生かそうとします。
例えば、蚊が伝染病を運ぼうが蚊を生かし、
猿が畑の実を食らおうがお構いなしで猿を生かします。
よって、天道に任せるだけなら田畑が自然にできるわけはなく、平野は荒れ放題になります。
人も自然に生った果実や野菜を取り、狩猟して魚や動物を食べるという原始時代の状態となります。
これに対して人道は、その天道に従いながらも、人として便利なものを善とし不便なものを悪とすることで、人を生きやすくしています。
蚊に刺されないように蚊帳を張り、果樹園に猿や猪が入り込まないように柵を設けるわけです。
人間社会でも、政(まつりごと)や教を立てたり、刑罰法制を定めたり礼法を設けたりと、手間をかけ世話をやくことで、人道を成り立たせています。
天道に従うだけなら、人も野草のように好き放題な振舞いを行います。
それに対して雑草を刈るが如く、口やかましく取り決めを守らせようと一刀両断したら、共同体は破綻してしまうかもしれませんし、立てた人道も崩壊しかねません。
天道と人道の原理を踏まえ、人社会を良い塩梅に調整する工夫が求められます。
人に対する愛情と、取り決めた方針に対する必要性や必然性の確信を持つことで、
多少のことは見て見ぬふりする「度量」を身に付けて対処することが望まれます。
多くの人々が、日々新たに、伸びやかに、昨日より成長し、
お互いが助け合って、楽しく暮らすという状況こそが理想です。
皆さんは、職場の管理職であったり、小集団のリーダーであったり、PTAや地域社会の役員、スポーツ団体の監督やコーチなどという方もおられるでしょう。
今日から、どんな工夫で取り組んでいきましょうか。