子曰わく、上に居りて寛ならず、禮を爲して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。
(先師が言われた。人の上に立って寛容でなく、礼を行っても相手を敬わず、葬儀に参って心から悲しまなければ、何によってその人柄を判断することができようか。)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
わかりやすい言葉です。
地位の高い人が偉ぶり、部下やメンバーに寛容ではないというのであれば、誰からも尊敬を得ることなく、その組織は機能不全に陥るでしょう。
主観ですが、成功体験のある人や業績を上げた人が高い地位に就くと、
この傾向が強く表れるように感じます。
自らを信じて行動してきた自信があるのでしょう。
ただし、神様でもない限り、その考えは個人的な範疇にしか存在意義を持ちません。
多くの人を活かし、協力し合って、1+1が2どころでなく、
3や4以上にしていくのが、望まれるリーダー像です。
言葉の続きの部分は、リーダーだけを対象としたものではありません。
礼儀としてはひと通りこなしながらも、慎みがなく、相手を敬う気持ちがないのなら、形式重視の中身のない人としか見えません。
同様に、葬儀において、心から故人を思いやる心情がにじみ出ないのなら、やはり取るに足らない人物と判断するしかありません。
そんな人を、一体どうやって気にかけてあげようか、
どこを見どころとしてあげようか、困ってしまうというわけです。
このような事例は、注意しているとよく見受けられます。
先日ある会合で、他者を敬うような前置きをしながら、
その主眼は自説の主張と正当性の訴求という発言をした方がいました。
漠然と聞いてしまうと、特に人生経験の浅い人では、「優れた言い回しだ、自分もあんなパフォーマンスで聴衆を言いくるめたい」と感じる人もいそうです。
ただ、主張の中身は本人の勘違いもあり、それに気づかないままの不満と愚痴という内容でした。
結局、司会者の紳士的な対応により、本人の顔をつぶさないよう収束に至りました。
現在の社会人は、「時務学」(知識、スキル)に長けた人が増えてきています。
学校での勉強、仕事の処理術、人心掌握術など、頑張って習得してきた成果でしょう。
まさに戦後教育の賜物であり、競争社会を生み出し、
その中で生き抜く術として獲得してきた知識やスキルです。
ただし今後は、「時務学」(末学)よりも
「人間学」(本学)に焦点を当てた教育が必要と痛感します。
(※ 本学よりも末学が重視される状態、これが「本末転倒」の語源と言われています。)
今の学校教育のままなら、
「AIの能力にいかに近づけるか」という方向性しかないでしょう。
現に、受験競争が激しい韓国や中国では、ITを用いた不正受験等が増えてきているようです。
学問軽視という状況ですが、受験生だけが悪いというわけではないはずです。
学問の質的な位置付け、学問に対する社会の姿勢や仕組みが根本的な問題ではないでしょうか。
学問は、記憶力の優劣や既成の方程式の習得過程に成り下がってはいけません。
「人間学」が本当に求められています。