これを視れども見えず。名づけて夷と曰う。これを聽けども聞こえず。名づけて希と曰う。これを搏れども得ず。名づけて微と曰う。この三者は致詰すべからず。故に混じて一つと爲す。その上は皦かならず。その下は昧からず。繩繩として名づくべからず。無物に復歸す。これを無狀の狀、無象の象と謂う。これを惚恍という。これを迎えてその首を見ず。これに隨ってその後を見ず。古の道を執りて、以て今の有を御す。よく古始を知る。これを道紀と謂う。
(見ようとしても見えない。それを夷、平ら、のっぺらぼうと表現する。耳で聞いても聞こえない。これを希と表現する。手で探っても捉えられない、これを微と表現する。この夷と希と微、この三つの言葉は分別することができない。だから、これらすべて、夷も希も微もごた混ぜにして道の表現とする。
この道というものは、上を向いてもはっきりと見えるわけではない。さりとて、その下の方を見ても、別段特に暗いというわけではない。果てしもなく多く、定義することができない。つまりは、何もないところに帰ってゆく。これを姿のない姿、形のない形という。それはいわば、恍惚、ぼんやりとしている。前から見ても頭は見えない、後ろから見てもしっぽは見えない。そういったものが道の姿である。
これは太古の無である。この太古の無を捉え、認識して、それでもって、今の目の前にあるあらゆる現象をコントロールする。これができるならば、何もない太古の始まりの状態を知ることができるであろう。これこそ道の大綱、つまり王道の大綱でもある。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
太古、それは道の始まり、壮大なる宇宙の誕生を考えさせられます。
他方、最後の言葉にあるように、たぶんに政治的な意向も窺えます。
現世の始まりとしての太古を知り、その無を把握することこそが、世の中を治める力、つまりは王道を得ることになり、その大綱であるという結論です。
ところが、その王道は、見えず、聞こえず、触れられず。
なんとも歯がゆい結論ではあります。
概念的には何となく理解できても、現実的にどう活かしていくかは見えてきません。
ただ、私たちが望む愛や情、慈しみ、喜びや悲しみなど、
究極は全て「見えず、聞こえず、触れられず」ではないでしょうか。
そしてそれらは、手に取って愛でることはできませんが、
「感じる」ことができるものです。
慎重に、自分を取り囲む、あらゆる自然が発する息遣いを捉えようと気を配り、微かながらもその動きや波長を感じられれば、もしかすると太古の道に自らの姿を重ね合わせられるかもしれません。
「幸せというのは向こうから
勝手にやってくるものではありません。
すでに自分を山ほど取り囲んでいるもの。
それにどれほど気がつくか」(小林正観)
私たちの周囲には、色々なメッセージが溢れているのではないでしょうか。
それに気づくかどうかは、一人一人の心の周波数、
それを合わせられるかどうかなのかもしれません。
静謐に身を置く時間を多く取りたいものです。