西洋の刑法は専ら懲戒を主として、苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも穏やかにして、艦誡となるべき書籍を与え、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥るを恤い給いしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明じゃと感ずる也。
(西洋の刑法はもっぱら、罪を再び繰り返さないようにすることを根本の精神として、むごい扱いを避けて、人を善良に導くことを目的としている。
だから獄中の罪人であっても緩やかに取り扱い、教訓となる本などを与え、場合によっては親族や友人の面会も許すと聞いている。
もともと昔の聖人が、刑罰というものを設けられたのも、忠孝仁愛の心から孤独な人の心情をあわれみ、そういう人が罪を犯してしまうのを深く心配されたからだ。
だが、実際の場で今の西洋のように配慮が行き届いていたかどうか、(中国の)古い書物には見当たらない。
西洋のこのような点は誠に文明だ、とつくづく感ずることである。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
日本と西洋の刑法の違いが表されています。
西郷さんは、西洋の思想や服装などを猿真似のように取り込むような日本人のアイデンティティの喪失を憂うことや、開発が遅れた国に残忍なことを行って利益をむさぼる西洋の野蛮さを非難する意見もされていますが、その一方、文明として西洋から学ぶべき点については率直に認めています。
では、今の日本の刑法はどうなのでしょうか。
1990年代の若いころ、法務関係の仕事をしている旧友から、一人殺めて15年、二人殺めて無期懲役、3人以上で死刑というようなことを聞いたとき、心の中で絶句した記憶が今でも強く残っています。
自分が生まれ育った国、世界にその名を知らしめた日本とは、
その程度の国なのか・・・。
ところが、個人的感情は、残忍な事件であるほど死刑で当然だとか、この犯人は悪魔の生まれ変わりに違いない、だからこの世から抹殺すべきだというような感情さえ湧き出ます。
それが死刑判決にならず無期懲役になったとき、こんな奴が十数年後に刑務所から出てくるのはおかしい、日本の司法はどうなっているのだと憤りさえ感じます。
しかし、犯罪をおこした人の背景を探ると、幼少のころに育った境遇が劣悪で、社会からいつも爪弾きにされた過去があったり、最も愛されるべき親からひどい虐待を受けていたりなど、本人そのものではなく、置かれた環境自体が犯罪に走らせたと考えられるケースが少なからずあるようです。
また、暴力団の構成員であった人が刑務所の中で人間学の月刊誌「致知」を読み、その後、人格が変わって同囚の人からも尊敬される人物に変貌したという事例にも考えさせられます。
一冊の本が人生を変えると言われますが、書物から得られた気づきや知見、あるいは度量ある人物との接触によって、ひどい犯罪を犯した人でも、そういう出会いをきっかけとして、人道を正しく歩む人間に変われる可能性を示しています。
犯罪の全てとは言えないかもしれません。
ただし、多くの場合において、その原因は本人の問題ではないと言えそうです。
にもかかわらず、今の日本では、犯罪者本人に責任を取らせることが正義であり正しい処置だとし、残忍な犯罪であれば当然のごとく死刑を望むということが普通になっています。
この状態を別角度から見ると、死刑制度を含む現下の刑法自体が、「犯罪は犯人自身に問題があるのだ」と、国民に意識付けをした結果の産物と考えられなくもありません。
環境や境遇が原因で犯罪をおこしてしまった人、その人自身を責めることが刑法として正しいという考え方は、明らかに文明とは言えそうにありません。
極論ですが、野蛮な制度ではないでしょうか。
日本の死刑制度に海外から批判が出ているため、
以前からしかるべき検討がなされているようではあります。
今一度、根本から見直し、考え直すことが望まれます。
現代を生きる私たちは、寿命を全うした後の未来のあり方にも責任があるはずです。
問題の先送り、事なかれ主義、日本国として恥ずべき行為。
後世を担う子孫に対して
正すべきことは正しておかねばなりません。