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COLUMNSブログ「論語と算盤」

道理と人の器

2021年4月1日

道理は弁明せざるをべからず。しかれどもあるい声色せいしきを動かせば、すなわうつわの小なるを見る。

道理は黙識もくしきせざるをべからず。而れどもいたずらに光景をろうすれば、則ち狂禅きょうぜんに入る。

(物事の道理ははっきり弁別して明らかにしなければいけない。しかし、そのために大声を上げたり顔色を変えたりするのは、器の小ささを露呈することになる。

 物事の道理は心の中で会得しなければならない。しかし、いたずらに妄想を巡らしていると、わかりもしないのに悟ったような誤った禅に入ったようになる。)

<出典:「言志四録一日一言」佐藤一斎著 渡邊五郎三郎監修 致知出版社>

 

「道理」とは、正しい筋道、正しいことなどと理解されています。新纂浄土宗大辞典では、「物事の存在や変化のさいに依拠する法則。物事の筋道。道義。」と説明されています。

 

 さて、道理が無視される事態、則ち無理が通されようとしている事態に直面したら、道理にかなった意見をきちんと述べるべきでしょうか。

 

「道理」は、一般的に抽象的な表現であることから、自己主張として使われる場面があります。一見まともな内容に感じても、違う角度、例えば別の利害関係者の立場からすると不条理なこともあります。

つまり、単に自己弁護のためや、利己のために用いられることが往々にしてあるわけです。だからこそ、感情的で強引な主張をすると、たとえ正しい筋道であったとしても、疑われるかもしれません。また、融通の利かない硬直的な意見と受け取られ、軽くあしらわれかねません。

 

 正しいことを通すという場面でさえ、周囲の人々の思いを推し量る配慮、そして伝え方が大切なのです。それを欠き、感情的であったり威圧的であったりすると、それはその人の器量の小ささを開示することになるのです。

 

一方、物事の道理というものは、学校の教科書に載っているものではありません。また、誰かから教えてもらうものでもなく、自分自身で会得するものです。そのため、道理を会得するための基本的な考え方や知見、判断基準などが重要な影響を与えます。自分が経験したことや学んできたことなど、多様な要素がその人の道理を支えることになります。

日ごろの考え方や問題意識のレベルによって一人一人の道理の概念に違いが生じることになりますが、それこそが、その人の成熟度合いを測る要素のひとつでしょう。

 

単なる妄想レベルや自分勝手な思い込みは、当然ながら道理から程遠いものであり、よくよく吟味せねばなりません。