人の過失を責むるには、十分を要せず。宜しく二三分を余し、渠れをして自棄に甘んぜず、以て自ら新たにせんことを覔めしむべくして可なり。〔晩録二三三〕
(人の過失を責めるときには、徹底的に責めるのはよくない。二、三分は残しておいてやり、その人が自棄にならずに、自分で改めて立ち直るように仕向けてやるのがよい。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
人を叱ること
誤りを正そうと責めること
簡単ではありません。
徹底して教え込もうという姿勢は
叱る側の単なる自己主張でしかありません。
本当の意味での叱るということは、その人を良くしてあげるという深い思いやりがあってこそです。
本当の愛情があれば、その人の人生が素晴らしいものになるように願うはずです。
そしてその人が自分の人生を良くしていくためには、必ず自ら気づかねばなりません。
つまり「叱る」という行為は
その相手が自ら気づくきっかけづくり
として機能させることが肝要です。
叱られることも大事です。
素直な心があれば、叱られることで気づきが得られるでしょう。
手取り足取り教えられるより、自分の気づきをもとに物事を進められた方が有意義です。
心をひらいておき、素直に耳を傾けましょう。
相手の意見、提案、𠮟責に対して、全面的に受け入れることです。
そしてそれが誤ったものでないと判断するのなら、自分で実践してみることです。
それによって
相手も自分の言に
責任があることを認識します。
年を取るに従って叱られる機会が徐々に無くなっていきます。
他者から叱られる、責められる、意見を言われる、年を取るほど大事にしたい機会です。
叱ることについての道元の言
「住持長老として、衆を領じたりとも、弟子の非をただし、いさめんとて、呵責の言を用いるべからず。
柔和の言を以て、いさめすすむとも、随うべくは随うべきなり。」〔正法眼蔵随聞記 巻四〕
(住職や長老として、多くの僧たちを指導する立場になっても、弟子の過失を正し諫めようとして荒々しい叱責の言葉を吐いてはならぬ。穏やかな言葉で諫めても、随うものは随うのである。)
<出典:「道元一日一言」大谷哲夫編 致知出版社 十月二十九日より>
叱責に際しては、必ず感情を排除すべきです。
意思に基づいた対話とするべきです。
気づくことについての安岡師の言
「人には種々の豊富な潜在的能力(才徳)があるが、ちょうど色彩に対する鋭敏な感覚を有する画家の作品によって、はじめて我々も自然における色彩美を感知し、今まで単純な音響しか聞く耳を持たなかった者が、微妙な音楽家の弾奏にょってはじめて音楽の世界を発見するように、人の潜在的能力も明師良友を待ってさまざまな風情を現じ、徳音を発する。」
<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰監修 致知出版社 七月二十七日より>
自分を高めるために、心を開いておきましょう。