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COLUMNSブログ「論語と算盤」

今このときを丁寧に

2024年5月7日

其の安きときはやすし。其の未だきざさざるときははかり易し。其のもろきときは破り易し。其のかすかなるときはさんじ易し。之を未だ有らざるに爲し、之を未だみだれざるに治む。合抱ごうほうの木は毫末ごうまつより生じ、九層のうてなるいより起こる。千里の行は足下より始まる。爲す者は之を破り、る者は之を失う。聖人は爲す無し。故に敗るる無し。執る無し。故に失うこと無し。民の事に從う、常にほとんど成るに於て之をやぶる。終りをつつしむこと始めの如くなれば、事を敗る無し。ここを以て聖人は欲せざるを欲し、得難きのたからを貴ばず。學ばざるを學び、衆人の過ぎる所にかえる。以て萬物の自然をたすけて、敢て爲さず。〔其安易持章第六十四〕

(ものごとがまだ安らかであるときには、これを押さえることはたやすい。ものごとがまだ芽をふかないときに謀れば、謀りやすい。ものがまだもろいときならば、これを打ち破ることはたやすい。ものの形がまだ微かなときには、これをけちらしやすい。

 ものごとは必ず、まだ形をなさないうちになすがよい。政治はまだ世の中が乱れないうちに治めるがよい。

 ふた抱えの木は、毛すじほどの芽から生ずる。九階の高殿は、土をモッコ一杯分盛ったところから始まる。千里の旅は、足もとから始まる。

 積極的に何かしようとするものは、必ずこれを台なしにする。何かに執着するものは、かえってこれをなくす。聖人は積極的にしようとはしない。だから失敗することもない、何かに執着することがない。だからなくすこともない。

 それに対して世間の人々がものごとにあたる場合、いつも、もう少しで完成するというときに失敗する。

 ものごとの終わりまで大切にしていく、ちょうどものごとの始まりを大切にするように。そうすれば、ものごとを台なしにすることがない。

 だから、聖人は俗人が欲しないものを欲する。俗人の得たいと思う珍しい宝物を貴ぼうとはしない。聖人は俗人の学ばないものを学ぶ。俗人が通り過ぎて省みないところへ聖人は振り返る。

 かくてこそ、万物があるがままに育っていくその働きを助け、しかも自分自身は積極的に何かをしようとはしない。)

<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>

 

 

 

 

聖人と凡人の違い

 

それは

 過程を目的とするか

  結果を目的とするかに

   よるのではないでしょうか

 

 

「あんなふうになりたい」や「あのような場にいたい」という抽象的な情景を結果の目的としても、おそらくはうまくいかないでしょう。

 

憧れる状況があるだけで、そこに至る道筋が不明です。

 

そこに至る過程に乗れても、結果へのつながりが見えずにやめてしまいかねません。

 

また、今日の言のように、心に浮かぶ「像」として完成しており、取り掛かるには遅すぎます。

 

 

ありがちなのが、流行りものに飛びつく姿。

 

世の中の流行を満喫しているように映りますが、実のところ翻弄されているだけ。

 

 

 

他には、「あれを手に入れたい」や「あの人に勝ちたい」という結果の目的もあります。

 

対象が明確な分だけ対策が考えられ、的確な手を打つことも可能です。

 

しかし、それが手に入らなかったり負けたりすることは必然的に生じます。

 

 

対象が大きくなるほど制覇することが難しくなります。

 

それでも人一倍の執念があれば、制覇の寸前まで行くこともできるでしょう。

 

周囲も褒め称え、本人も制覇したと感じるとき、次の一歩で転ぶものです。

 

 

きゅうじんこういっく ”

 

 

物事の終わりは

当初期待したものとは

異なる情景で現れます

 

 

 

過程を目的とすればどうでしょう。

 

日々、いま、このときを大切にし、物事が芽吹いてきたことや、形作られようとしている事象を感じることです。

 

物事の最初のきざし、きざしを捉えることです。

 

その動きを、立ち止まって、振り返って観察することで、終局の情景を読み取ります。

 

 

しかし、読めたからといってそれに執着はしません。

 

日々の過程を目的とすること

 それは自分の一生の “ あり方 ” を

  目的とすることにつながります

 

 

 

日常を丁寧に生きることが

そのまま芸術になる

 

 (大熊玄 立教大学教授)

 

 

日々

いまという過程の目的

自分の生き方の目的

 

それらを模索し実行し

兆しを観察し

目的を果たしていくことで

 

自らの死についてさえも

その終局の情景を

見ることができるのでしょう