其の政悶悶たれば、其の民醇醇たり。其の政察察たれば、其の民缺缺たり。禍や福の倚る所。福や禍の伏する所。孰か其の極を知らん。其れ正まる無きか。正復た奇と爲り、善復た妖と爲る。民の迷う、其の日固より己に久し。是こを以て聖人は方にして割らず。廉にして劌らず。直にして肆びず。光あって耀かず。
(その政治がぼんやりとして暗いようであれば、その民はみずからの生活を楽しむことができる。
その政治があまりにもはっきりして、すみずみまで目を光らせるようであれば、民は、表面はとにかく、内心不満足である。
禍というものは、福がうしろによりかかっている。いつ福と禍が入れ代わるかわからない。福というもの、その下には禍が伏せている。いつひっくり返されるかわからない。
この禍と福との入れ代わり、循環、これはだれもそのきわまるところを知らない。無限の循環である。その循環の仕方には、一定の法則はないであろう。
すべて天下のものは、まっとうと思われたものが次の瞬間には型破りとなる。吉と思われたものが、次の瞬間には不吉なものと代わる。
世間の人は、ここの道理がわからない。よいものと悪いものの区別、これが相対的であるということを知らない。民はすべて真っ二つに割り切ろうとする。これは迷いである。しかもこの迷いは、大昔からそうなのである。
だから聖人は自分自身正方形、真っ四角ではあるが、はっきりとした角を示さない。その角に合わせて他人のはみだしを削ろうとはしない。
角はある。清廉でもある。角はある、清廉さはあるけれども、それでもって人を傷つけようとはしない。
おのれ自身真っ直ぐではあるが、その真っ直ぐさを誇ろうとはしない。内なる光はあるけれども、そのかがやかしさを外に示そうとはしない。これが聖人の道のあり方である。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
一党独裁のかの国の政治体制を見ると、まさに“察察”です。
中枢の決定事項は、末端の下部組織まで厳しく遵守することが求められます。
一般市民がいくら不平を訴えても、検討してくれる余地は、実質的にありません。
さらに言うと、あの政治家はけしからんなどと口にするだけで危険です。
一般世間の人は、確かに善と悪を真っ二つに割ってしまいがちですが、この国では国家のトップがそうなっているのです。
この理由は、老子によると「迷い」とのこと
国家のトップが「迷い」の渦中にいることを示唆しています。
経済的格差や心理的格差が生じないはずはありません。
国家は経済的格差を埋めようと富の再配分を行うでしょうが、心理的な格差は埋まりません。
自由な発想や型破りな挑戦は認められず、政治的思想から遠いところに追いやられます。
夢を描くことはできず、抑圧された日々を単に消化するしかありません。
そんな中、いくら金を渡されても不平は募るばかりです。
それはまさに、心理的底辺に居続けるための駄賃なのですから。
他方、自由・民主主義の国々では、基本としては自由な人生を送ることが可能な仕組みです。
一人一人の小さな声が、社会を動かすことさえ不可能ではありません。
というよりも、その可能性を広げてきた努力の積み重ねの結果が今現在というべきでしょう。
しかし、例えばわが国においても、変化を嫌って安定を求めてしまうと、社会や経済が硬直的になってしまいます。
挑戦は無くなり、無難で安逸な日々を望むような社会になってしまいます。
そしてその陰では、停滞と腐敗という禍が育まれてしまうのです。
誰にでも挑戦する権利があり、その機会もあります。
生まれや家柄、学歴や財産の違いなどで、それを断念させられるようでは共産主義と変わりません。
例えば、組織を蘇えらせようと頑張っても、経営者一族、学閥、派閥の安定のために潰されることの方が多いでしょう。
“ガラスの天井”は、どうやら他人事の話ではなく、そこかしこにあるようです。
しかし、個人を尊重する開かれた国家なら、必ず自由な方向に変えられるはずです。
少し臆病になっているだけ
一つでも
小さくても
挑戦していくこと
孟子曰く、人恒の言あり。
皆曰く、天下国家と。
天下の本は国に在り。
国の本は家に在り。
家の本は身に在り。
(孟子は言った。「人はよく『天下国家』と口にする。しかし、天下の本は一国にあり、国の本は家にあり、家の本は自分自身にあるのだ」)
すべての始まりは
自分の心に灯をともすこと