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COLUMNSブログ「論語と算盤」

磨き続ける

2023年8月4日

ちょううてわく、令尹れいいんぶんたびつかえて令尹とれども喜ぶいろ無し。三たびこれめらるれどもうらむ色無し。きゅう令尹のまつりごと、必ずもって新令尹にぐ。何如いかんのたまわく、ちゅうなり。わくじんなりや。のたまわく、いまだ知らず、いずくんぞ仁なるをん。さいせいきみしいす。陳文ちんぶんうま十乘じゅうじょうり、棄ててこれる。ほういたりてすなわわく、なおたいさいがごときなりと。之を違る。一邦いっぽうに至りて則ちまたわく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。何如。子のたまわく、せいなり。わく、仁なりや。のたまわく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。

(子張が先師に尋ねた。

「令尹(楚の宰相名)の子文は、三度仕えて令尹となったが喜ぶ様子がありませんでした。又三度やめさせられても怨む様子はなく、必ず政務の引継ぎを丁寧にしました、人物としてはどうでしょうか」

 先師が答えられた。

「職務に忠実で私心のない人だ」

 子張が「それでは仁者でしょうか」と重ねて尋ねた。

 先師が答えられた。

「まだよく分からないが、どうしてそれだけで仁者ということができようか」

「崔子(斉の大夫)が斉の君を殺した時、陳文子(斉の大夫)は、馬車十乗(一乗は馬四頭)を持つ財産家でありましたが、これを棄てて他国へ行きました。その国へ行ってみてもやはり崔子のような大夫がいたので、去って別の国へ行きました。そこでも崔子みたいな大夫がいたので去りました。こんな人物はどうでしょうか」と尋ねた。

 先師が言われた。

「心の清い人だ」

 子張は「それでは仁者でしょうか」と尋ねた。

 先師が答えられた。

「それは分からないが、それだけで、どうして仁者ということができようか」

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

子文、陳文子ともに立派な人のようです。

 

 

ただし孔子は

仁者といえるかどうかはわからないと

 

 

 

仁者とは

仁とは

 

 

 

 このブログでも何度か記してきましたが、改めて確認してみます。

 

 

 「もとは外見の見栄えの良さのこと。孔子が内面化した。“自分の心内の欲求を自覚し、それを基にして他者の心中を思いやること”。探求すべき対象というよりも、実践を即座に求められる性格のものであることから、孔子は定義づけていない。」

<出所:「儒教入門」土田健次郎著 東京大学出版会>

 

 

 「自分が立とうと思えば先に人を立て、自分がのびようと思えば先に人をのばすように、日常の生活に於いて行う。これが仁を実践する手近な方法だ。」

 

 「五つのことを天下に行うのを仁という。五つとは、恭寛信敏恵だ。うやうやしければ、人から侮られない。ゆったりとしておおらかなれば、民は慕ってやってくる。まことを以て接すれば、人から頼られる。きびきびと行動すれば、業績が上がる。恵が深ければ、人は気持ちよく働くようになる。」

<出所:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 これらから、仁とは、自らを修めた上で、他者を思いやり、他者を良くしてあげるという、他者との心の関係性が中核であることがわかります。

 

 

 子文と陳文子の振舞いは

  確かに立派な行いです

 

 ただ、見えてくるのは

  自らを修めていること

   自らの職責を全うし

    自らの誠に従っていることです

 

 そこには

  他者を思い

   他者を救うために

    何かを施すような

     そんな姿は見えません

 

 

しかし

もしかしたら仁者なのかもしれません

 

 

 

 人は多様な側面を持っています。

 

立場や経験の違いで、見る側も見られる側も全く異なる印象の人物となります。

 

誰か特定の人を信頼し、ずっと仲良くしたいと思っても、相手の目線は違っているかもしれません。

 

 

 

この世のため

人々のためと考えれば

ただ己を修め

他者を救うことです

 

 

最後まで自分を磨き続けること

これが生きる意味であり

また生きがいなのでしょう

 

 

もう一度生まれ変わるのなら

 

同じ “ 生 ” を選びたい

 

 

そう思えるように