今の人、才識有れば、事業は心次第に成さるるものと思え共、才に任せて為す事は、危くして見て居られるものぞ。体有りてこそ用は行わるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ様になりたるとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。
夫天下誠に非れば動かず、才に非れば治らず。誠之至る者其の動く也速か、才之周ねき者その治る也広し。才と誠と合し然後事を成すべし。
(いまの人は、才能や知識さえあれば、どんな事業でも思うままにできると思っているようだ。だが、才能に任せて運ぼうとすることは、どうも危なっかしくて見てはおられないものだ。仕事は、しっかりした人の体、すなわち人格があって、計画や人との協調・協力があってこそ、うまく運び、立派な成果を成し遂げられるのだ。
肥後藩(現在の熊本県)の長岡監物先生(家老、勤皇の思想家)のような立派な人物は、今は同じくらい優れた方を見ることもできないようになってしまったと言って(南洲翁は)嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。
「世の中のことは真心がない限り動かすことはできない。また才覚がない限り治めることはできない。真心に徹すると、その動きも発展も早い。才覚があらゆる面に発揮されれば、その治めるところも広くすみずみまで行き渡る。才覚と真心が一緒になった時、治世を行うべきである」)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
いまの世を示唆した言葉です。
知識を詰め込み
それを操ることを才覚とし
それを使って世の中を治める
典型的例は、法律さえ犯さなければ何をやっても良いという政治家の言。
こういう堕落した意識の為政者が多くなってきています。
もちろん、政治家に限ったことではありません。
法律とは、やってはいけないことを記した最低限の決めごとです。
だからもし皆が
やってはいけないことを
自らの意志でやらないとする
理想的な世の中なら
法律は不要
こんな悪いことはやってはいけませんよと、
最低の決まりごとを作っているのです。
それさえ守れば何をやってもよいというようでは
人を、組織を導いていく者の責務の微塵も感じられません。
もとより、その資格がないのです。
ただ自らの利権を増やし
餓鬼のように欲を満たす
視野が矮小で自分の悦楽を追求するだけの小人
四書五経の四書一つ、「大学」の最後はこう締めくくられています。
「國家に長として財用を務むる者は、必ず小人に自る。彼之を善くすと爲して、小人をして國家を爲め使むれば、菑害竝び至る。善者有りと雖も、亦之を如何ともする無し。此を國は利を以て利と爲さず、義を以て利と爲すと謂うなり。」
(国の責任者として財用を司る者は、必ず才能のすぐれたいわゆるやり手によって事務を処理する。然し彼がよく出来るからといって、これに高い地位を与えて国政に当たらせると、天災人害が共にやって来る。たとえ立派な人物が下位に在っても、どうすることもできない。これを国は目先の利を以て利とせず、義(道理に叶った人間の道)を以て真の利とするのである。)
<引用:「大学を素読する」伊與田覺著 致知出版社>
組織の大小を問わず、人の上に立つ者は「君子」でなくてはなりません。
どんなに時務学※1に優れていても、人間学※2のない「小人」を長に就けてはなりません。
かように、人や組織を治めるための仕組みづくりは、容易ではありません。
学校でおりこうさんだったらトップに就ける組織
言葉を合わせ迎合しておけばトップに就ける風習
家の跡取りだから、トップに就くという甘い認識
さもしく
情けない
天地に顔向けできない言動
きっと本人たちも、真剣に考えたとき、こんな生き方はしたくないと思ったはずなのに。
甘さ、妥協、迎合
人生の羅針盤を狂わせるこれらの姿勢
一度足を踏み入れると、修正は困難です。
「人格」
人類の最終局面にしてしまうか否かの分岐点と言える現代
人類滅亡のドアを開けるのか否かの瀬戸際の現代
最も重視しなくてはなりません
※1:時務学は末学とされ、その時代を務めるための学問であり、方法や手段を学ぶもの
※2:人間学は本学とされ、目的を捉える学問であり、徳性を養い、人間性を高めるもの