天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是一箇の真誠也。古えより父の仇を討ちし人、その麗ず挙て数え難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉なり。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。
(後世までもずっと信じることができ、感動を与えられることができるのは、ただ一つの真心だけである。つまり、その行動に真心、誠意が込められていたかどうかなのだ。
昔から父の仇を討った人は数えきれないほど大勢いるが、その中で曽我兄弟(鎌倉時代の武士、十郎祐成と五郎時致)の仇討ちだけが、今の世に至るまで女性や子供までも知らない人のないくらい有名なのは、多くの人に抜きん出て真心が深いからであろう。
誠意や真心がなくて世の中の人から褒められるのは、偶然の幸運に過ぎない。真心が深ければ、たとえその当時は、知る人がなくても後々の世に必ず知られ、同情する人が出てくるものである。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
まごころとは「真の心」
雑念や常識で固められた外側の心の
内側にある「真の心」
ただし、多くの人は自分の「真の心」に自信が持てません。
外側の心が邪魔をするからです。
外側の心は、自分の得になる状況や情報、自分が傷つかない事柄を優先して捉えます。
それは、常識や社会的な評価を基準にします。
つまり、自らの立場や環境を危うくするものを避けようとするのです。
まごころを貫くということは、これら雑念で構成された外側の心を突き抜けて、「真の心」に達するような思いであり、行動です。
これこそが
天から生を授かった
人が
その生涯を歩んでいく生き方でしょう。
しかし「真の心」に自信が持てないと
それを発現させようとしても
外側の心が邪魔をします。
やめておけ、なんの得にもならないぞと
しかし、外側の心に従うということは、その時代の社会が作り上げた雑念の塊や常識に盲目的に追従することを意味します。
このとき人は
得体の知れない
羊飼いに飼われる
羊そのものになります。
多くの人がこの「真の心」を意識し、それを大事にすれば、仇を討つような事態は生じないでしょう。
常に邪魔をするのは
外側の心の囁きです。
そしてそれに迎合してしまう
弱く安直な意志です。
いまの時代、多くの人が外側の心に縛られています。
感情や感覚などのやり取りが容易になった情報化社会も拍車をかけています。
表面的な言葉が、瞬時に大量に交換されています。
そして多くの人がそれに窮屈さを感じているにも関わらず
ただ流されているようです。
外側の心がドンドン育まれてしまっています。
このままでは、人類はくだらない常識や妄想の奴隷と化していくでしょう。
自らの「真の心」を認識し
自信を付与せねばなりません。
東洋古典の数々の知恵は大いにその力になります。
自らの「真の心」は
天が授けてくれたものです。
だからこそ思いや行動の基準とし
進むべき道標とし
より良い人生を創り上げていくのです。
より良い「世づくり」のために