Loading

COLUMNSブログ「論語と算盤」

真似の意義

2022年10月25日

およそ事は似るを嫌ってしんを誤ることなかれ。名にかかわりてじつを失うこと勿れ。へんってぜんを害すること勿れ。〔晩録二二四〕

(何事も、人を真似るのを嫌って真実を見誤ってはいけない。名前にこだわって実質を失ってはならない。偏ったことに執着して、全体を損なうことがあってはならない。)

<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

 

人の真似をすること

 

芸事もそうでしょうが、仕事のやり方や人との接し方においても大事なことです。

 

「あのような伝え方なら相手の理解も深まるものだ」とか、「笑顔で挨拶すれば相手も応じてくれる」ということに気づいたときに、その語り口や態度を真似るわけです。

 

このような真似は、真の目的のために行うことであり、自らを白紙にして行うことです。

より良い状況を生み出すためには何をなすべきか、この問いに対する効果的な振る舞いを真似るわけです。

 

ただし、振る舞いにこだわり過ぎて、全体の調和を崩してしまっては元も子もありません。

面構つらがまえは厳しいまま言葉だけ優しくしても、共感されることはなく、真の目的は果たせません。

 

 

 

技術の面からでは、「なぜそこから始めるのか」、「なぜここでそれを使うのか」というような疑問が生じた場合、真似てみることでその理由がわかることもあるでしょう。

 

これも、目的を成すために、目的のものを創り上げるために、欠かせない行為や技であることを認識して行うことが大事であり、ただ形式を真似るだけなら、文字通り猿真似で終わります。

 

 

 

名前、名称、家柄、社名、役職名、肩書、これらに必要以上にこだわってはいけません。

 

それらにすり寄る行為は、まさに「しょう人はどうじてせず」の入り口をくぐることになります。

 

 

本質を見定めて判断することです。

 

 

あなたの地位が高いのなら、自分の名称と自分の本質が合致しているかを自らに問うこと、また合致させるために努力と工夫を重ねることが求められます。

 

そして、合致していない、させられない、というのなら、その名を脱ぎ捨て別の衣をまとうことです。

 

 

 

全ては自分の心の深奥部分にある

 

「素の思い」に従うことです

 

 

 

財産、地位、名誉、評判などは雑音であり、「素の思い」を覆い隠す常識的、平均的意識です。

 

これら「外なる心」の雑音に惑わされることなく、奥のさらに奥にある「内なる心」、すなわち「素の思い」を捉えましょう。

 

 

 

他者の振る舞い、師匠の技、名称、これらはあなたの「素の思い」を発現させるためのきっかけやヒントとして、天がそこかしこで見せてくれているものです。

 

 

 

それを取捨選択するのはあなたです。

 

もとより正解の設計図などはありません。

 

そして時間はある程度かかるものです。

 

 

 

「素の思い」を発現させるために

必要なものを真似て

身に付けていく

 

 

「素の思い」こそが

この生で求めていること