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COLUMNSブログ「論語と算盤」

敬天愛人

2021年12月24日

道は天地自然の道なるゆえ、講学こうがくの道は敬天愛人けいてんあいじんを目的とし、身をしゅうするに、克己こっきもって終始せよ。おのれにつの極功きょっこうは「毋意いなし毋必ひつなし毋固こなし毋我がなし」と伝えり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以てやぶるるぞ。

(人が正しく生きる道というものは、天地自然の道理である。学問というのはその道を知るために、「敬天愛人」すなわち、天を敬い、人を愛するという境地を目的にしなくてはならない。そのためには、「己に克つ」ということを心がけねばならない。

 自分自身に克つという意識を持つことは並大抵のことではないが、それを『論語』では「わがままをせず、無理をせず、固執せず、我を通さず」(私利私欲を出さない。無理強いをしない。物事に固執しない。独りよがりをしない)と表現している。

 一般的に人は自分に克つことによって成功し、自分本位に考えることによって大事なものを見失い、失敗するものだ。)

<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>

 

 

 

「人を相手にせず、天を相手にせよ」

 

西郷さんは、自分と天の関係を大切にしていたのだと感じます。

 

 

天に対してこれで良いのかと問うと、その答えは自分の中に生じます。

この過程を常に踏んでいかないと、危うい言動になりかねません。

天に問うて、自らの言動を正すことが、人が正しく生きる道です。

 

そして、天は生きとし生けるもの全てを生み出します。

天は、生まれて、生きて、良くなってほしいと、全生命を愛しているのです。

 

 

これが冒頭にある天地自然の道理です。

 

 

天が全ての人を愛するのなら、人々同士も愛し合う、大切にしあう、

これが天の道理に従った、人としての道理、人道です。

 

 

『敬天愛人』

 

 

 

 西郷さんは、これら天の道理に沿うには「克己こっき」(己に克つ)が必要とします。

 

人は何某なにがしかの成功を収めると、自信を持ちます。

しかし、この自信が自惚うぬぼれになってしまうと、自分こそが正しいとし始めます。

 

自らを否定することは恐ろしくてできず、周囲は従順な羊ばかり、裸の王様です。

周囲の人も、自分の身が可愛ければ、とても諫言かんげんはできません。

 

 

たくさんの社会的な成功者が、同じ轍を踏んできました。

 

 

このような惨状から逃れるには、一日一日、そして瞬間瞬間、自らの言動を検証するしかありません。

 

 

西郷さんのように、天に問い、正しい道であると確信できるか、

強欲さ、自分への甘さ、本心を直視しない、それらに打ち勝って、

正しく生きる歩を進めていく、これが「克己」です。

 

 

 

もう一つ、大病、投獄、倒産を経験した人は本物になるともいわれます。

 

誰からも見放され、自らは絶望しかなく、他者の慰めの言葉も空虚に感じる。

 

いわゆるどん底

 

このときに感じるのが、諸行しょぎょうじょうの境地ではないでしょうか。

 

 

一時的な成功、おべんちゃら、ごますり、その場しのぎのおだて、

全て、何の意味もないことに気付ける、貴重なときです。

 

 

そこまでの逆境ではなくとも、大きな絶望を感じたとき、近い心境になるでしょう。

 

 

私の場合、そのとき感じた自らの教訓は、

「地べたに這いつくばった目線から見よ」です。

 

そこから天を見上げると、一喜一憂の愚かさに気づき、

泰然自若の構えと、謙虚さこそが大切と感じられます。

 

 

 

しかし、このような逆境に恵まれなければわからないというのも、情けない話です。

 

 

やはり一番は西郷さんの考え方、

正しい道を天に問い、自ら答えを見出し、人を愛し、克己の心で生きる。

 

敬天愛人を心がける

 

これが天地自然の道理です。