道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は「毋意毋必毋固毋我」と伝えり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。
(人が正しく生きる道というものは、天地自然の道理である。学問というのはその道を知るために、「敬天愛人」すなわち、天を敬い、人を愛するという境地を目的にしなくてはならない。そのためには、「己に克つ」ということを心がけねばならない。
自分自身に克つという意識を持つことは並大抵のことではないが、それを『論語』では「わがままをせず、無理をせず、固執せず、我を通さず」(私利私欲を出さない。無理強いをしない。物事に固執しない。独りよがりをしない)と表現している。
一般的に人は自分に克つことによって成功し、自分本位に考えることによって大事なものを見失い、失敗するものだ。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
「人を相手にせず、天を相手にせよ」
西郷さんは、自分と天の関係を大切にしていたのだと感じます。
天に対してこれで良いのかと問うと、その答えは自分の中に生じます。
この過程を常に踏んでいかないと、危うい言動になりかねません。
天に問うて、自らの言動を正すことが、人が正しく生きる道です。
そして、天は生きとし生けるもの全てを生み出します。
天は、生まれて、生きて、良くなってほしいと、全生命を愛しているのです。
これが冒頭にある天地自然の道理です。
天が全ての人を愛するのなら、人々同士も愛し合う、大切にしあう、
これが天の道理に従った、人としての道理、人道です。
『敬天愛人』
西郷さんは、これら天の道理に沿うには「克己」(己に克つ)が必要とします。
人は何某かの成功を収めると、自信を持ちます。
しかし、この自信が自惚れになってしまうと、自分こそが正しいとし始めます。
自らを否定することは恐ろしくてできず、周囲は従順な羊ばかり、裸の王様です。
周囲の人も、自分の身が可愛ければ、とても諫言はできません。
たくさんの社会的な成功者が、同じ轍を踏んできました。
このような惨状から逃れるには、一日一日、そして瞬間瞬間、自らの言動を検証するしかありません。
西郷さんのように、天に問い、正しい道であると確信できるか、
強欲さ、自分への甘さ、本心を直視しない、それらに打ち勝って、
正しく生きる歩を進めていく、これが「克己」です。
もう一つ、大病、投獄、倒産を経験した人は本物になるともいわれます。
誰からも見放され、自らは絶望しかなく、他者の慰めの言葉も空虚に感じる。
いわゆるどん底
このときに感じるのが、諸行無常の境地ではないでしょうか。
一時的な成功、おべんちゃら、ごますり、その場しのぎの煽て、
全て、何の意味もないことに気付ける、貴重なときです。
そこまでの逆境ではなくとも、大きな絶望を感じたとき、近い心境になるでしょう。
私の場合、そのとき感じた自らの教訓は、
「地べたに這いつくばった目線から見よ」です。
そこから天を見上げると、一喜一憂の愚かさに気づき、
泰然自若の構えと、謙虚さこそが大切と感じられます。
しかし、このような逆境に恵まれなければわからないというのも、情けない話です。
やはり一番は西郷さんの考え方、
正しい道を天に問い、自ら答えを見出し、人を愛し、克己の心で生きる。
敬天愛人を心がける
これが天地自然の道理です。