尋常の老人は、多く死して仏と成るを要む。学人は則ち当に生きて聖と作るを要むべし。〔晩二六七〕
(普通の老人は、多くが死んで成仏することを願う。しかし、学問を修める者は成仏を願うより、生きて聖人となることを念願するべきである。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
命は必ず死を迎える
必然のことですが、多くの人はこの必然を直視していません。
かなり歳をとってから、徐々に意識し始めていくようです。
死んで成仏することに憧れるのは結構ですが、そんなことを考える間、“ いまこのとき ” を忘れています。
生きていようが死んでしまおうが、大事なことは “ いまこのとき ” ではないですか。
“ いまこのとき ” を
きちんと過ごすこと
“ いまこのとき ” を蔑ろにするのなら
一生全部蔑ろ
自分の死を意識する人は
強いものです。
自らの死に直面した人は
さらに強くなります
限りある人生、その人生の量・距離・重さ
一日を無駄に過ごすと、量は無意味に減り、距離は自然に縮まり、重みは増しません。
放っておいても、量と距離は減っていきます。
意識した一日を過ごすなら、量と距離が減る分、いやそれ以上に人生の重みが増すことでしょう。
この “重み ” こそが、今日の言葉の “聖と作る ” (作聖)こと
“ 戦場で第一線から遠ざかった場所では人はつまらない雑誌か小説を読んでいるが、だんだん戦線に近づいてくると、そういう本はバカらしくて読めなくなる。
真剣に精神的な書物を読むようになる。
本当に生命に響くものを求めるようになる。 ”
<出所:『人生の法則』安岡正篤師の言>
死を意識すること
それがすなわち
“ いまこのとき ” の生を
輝かせることになります