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COLUMNSブログ「論語と算盤」

神頼みの本質

2024年5月14日

鍋島安芸殿(注・鍋島茂賢)より志摩殿(注・茂賢の子)へ意見の事 志摩殿より使を以て安芸殿へ御申し候は、「京都愛宕へ参拝仕り度き」の由に候。安芸殿承り、「それは何のために候や。」と御申し候。使申し候は、「弓矢の神と候へば、御武運のため思召立たるゝ」の由申し候。安芸殿立腹にて、「しかと無用に候。鍋島の先手が、愛宕など頼みてなるべきや。向ふに愛宕権現立ち向はれ候はゞ、真中二つに切割りて、先手を勤むべくと存じ候へ。」と返答の由。

(鍋島茂里殿が父上の茂賢殿にたいし使者をもって「京都愛宕神社へ参拝いたしたい。」と申上げた。茂賢殿は「それは何のためのことであるか。」といわれたので、使者が「愛宕神社は弓矢の神と申しますので、ご武運のために思い立たれたのであります。」と申し上げた。

 茂賢殿は立腹され、「全く無用のことである。鍋島家の先手をつとめる者が愛宕神社などを頼りにしていてどうするか。もし愛宕権現が敵側に立って向ってきたならば、まっ二つに切って、先手をつとめる覚悟でいよ。」と答えられたという。)

<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

神頼み

 

 

受験や健康に関すること、名医でも難手術前に手を合わせて拝む方がおられます。

 

ある大物政治家は、飛行機の離陸前には、必ず両手を合わせて神様に安全を祈っていたそうです。

 

 

 

時代が進むにつれ、神様にご挨拶する人、家、きたり、減ってきています。

 

しかしそれでも困ったときは神頼みということで、多くの人が手を合わせていることでしょう。

 

その願いが叶うか叶わないか、おそらくその結果は神様の差配によるものではないでしょうが・・・

 

 

 

 

私にも経験があります

 

困って悩んだとき

神様に真剣に

お願いをしました

 

 

 

 

そのときふと、もし自分が神様なら、この自分の願いを聞かされてどうするだろうと考えました。

 

 

全てを願いどおりの環境

 状況に変えてあげれば

  こやつは大いに喜ぶに違いない

 

しかし

 それではまた同じような場面で

  こちら(神様)に

   すがってくるだろうな

 

 

 

全部与えたら

本人は成長せず

進歩もしないもの

 

 

 

そこで自分に還ります

 

 

とすると、何をお願いすべきか?

 

 

 

 

それはきっと

 自分一人では

  どうにもできない事柄

 

また

 余分な事柄を削っていくと

  本当に願うべき事柄だけが

   徐々に心の中に現れてくる

 

 

これが

 真に自分が欲している願いごと

 

 

 

 

 

そう考えると、今度は逆に、自分がなすべきことが浮かび上がってきます。

 

 

 

神に願うのではなく

ましてや他者に依存するのではなく

 

独力で開かねばならない扉

それが必ずあるものです

 

 

 

 

それらを淡々と処理していくに従い、やがて状況が変化していることに気づきます。

 

全てが望みどおりになるわけではないのですが、大きな山を越えられるはずです。

 

 

 

 

そしてそれからは

 朝に神棚で拝むとき

  最初に感謝の言葉が

   出るようになりました

 

 

 

 

 

自分が本当に望むこと

自分でなさねばならぬこと

その核心に気づかせてくれる

 

 

困ったときの神頼み

その恩恵の本質は

自分が “ 気づく ” こと

 

 

 

すべては自分自身

 

 

 

 

しかし

それでも神棚は必要です

 

 

神棚があってこそ

拝み

省みることができます

 

そしてまた

自分の願いの本質に気づき

自ら動き

神に感謝する

 

 

 

神棚は

この循環を生み出す起点です