雖習読不復 只如計隣財 〔實語教〕
習い読むといえども復せざれば、只隣の財を計うるが如し。
(意訳:いくら勉強しても、復習して身に付けなければ、単に隣の家の財産を勘定をしているのと同じである。)
<参考書籍:『實語教童子教 改版』馬喰町 錦耕堂山口屋藤兵衛板 解説>
学ぶことは自然な行為です。
学校がなくたって、人は、生きていくための術を自然に学んでいきます。
火の熾し方、獣からの保身、食べられるものと食べられないものの判別、他者との争いをどう避けるかなど。
よくよく考えてみると、全ての適切な学びは、その先に目的があるということに気付きます。
学ぶこと自体が目的ではなく、学ぶことの必要性やその意味を感じ取ってこそ、学ぶという行為が花を咲かせることになるのです。
あの学校に行きたい、あの資格を取りたいなどという動機では、おそらく良い結果にはつながらないでしょう。
研究したいことがあるからあの学校に行く、世の中に役立つためにあの資格を取る、あるいは自分の人生を考えたときに選択すべきはあの学校が適切、あの資格が適切という考え方が大切です。
あの人のようになりたい、という憧れも生じるでしょう。
スポーツ、経済や経営、社会活動、人物としての魅力など、様々な見本となるような立派、偉大な人物がいるのですが、そのような人の猿真似では何も意味を生み出すことはできません。
その先にある目的は何か
これが最も重要であるということ
疑う余地はありません
もっとも可哀そうなこと
それはたまたま
偶然的に高い位置に
立ってしまうこと
たまたまの才能だけで地域や同年代で一番になってしまったり、いわゆる経済的な成功を享受したりしてしまうと、そこから本物に成熟していくための軌道修正は難しいものです。
人生で歩んでいく道は多様であり、どれを選択するかは大いなる難問かもしれません。
しかし、だからといって人の言いなりになることや、表面面だけを追い求めるようなことでは無駄な時間を浪費するだけです。
また例えば、思春期に親の期待や欲などに迎合してしまうことには注意が必要です。
君、自分の帽子は自分の手で持つものだよ
(米文豪エマーソンが作家ソローの質問に対して返した言葉。
このとき初めてソローは、エマーソンがいつでも自分で馬に乗り、自分の荷物を持ち、自分で薪を運んでいるのに気がついた)
<出典:『人生を創る言葉』渡部昇一著 致知出版社>
偉大と称される人物は
皆
自分の人生
生き方
在り方について
深く見つめているようです