所謂其の家を齊うるには、其の身を修むるに在りとは、人其の親愛する所に之いて辟す。其の賤悪する所に之いて辟す。其の畏敬する所に之いて辟す。其の哀矜する所に之いて辟す。其の敖惰する所に之いて辟す。故に好みて其の惡しきを知り、惡みて其の美を知る者は、天下に鮮なし。故に諺に之れ有り、曰わく、人は其の子の惡しきを知る莫く、其の苗の碩いなるを知る莫しと。此を身修まらざれば、以て其の家を齊う可からずと謂う。
(八条目に「其の家を齊うるには其の身を修むるに在り」とあるのは、例えば、人は特に親しみを愛すると片寄って正常を失う。特にいやしみにくむ所があると片寄って正常を失う。特におそれうやまう所があれば片寄って正常を失う。特にかなしみあわれむ所があれば片寄って正常を失う。又特におごりおこたる所があれば片寄って正常を失うことになるということである。そこで好んでその者の悪い点を知り、逆に憎んでその者の美点を知る者は世の中に甚だ少ないものだ。故に昔からの諺に親はわが子の悪いことを知らない。農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らないとある。これを身が修まらなければ、その家を齊えることはできないというのである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
人は、親愛していると、その良い点しか見えなくなってしまう。
嫌い憎むもの、恐れて敬うもの、悲しみ憐れむもの、また驕り高ぶっているとき、人の心は偏ってしまう。
このようなときに、人は正常な心を失います。
そのため、好む物や人を客観視して、その悪い所や改善すべき点などを見出したり、逆に憎んだり怨んだりする対象の中に美点を捉えることができる人は少ないものです。
これら心の偏りは大なり小なり誰でも生じてしまうことでしょうが、一方でしっかりと対象を客観視して、自らの思いの誤っている点を見つけて修正していかねばなりません。
このことが極めて重要
離見の見
(世阿弥)
これができてこそ、格物に対峙し、知に至り、誠意を確立し、心を正しくし、そして身を修める段階に達することになります。
特に家庭の中では、極端な状態が生じる可能性があります。
傍から見ると
異常なほどの
溺愛や猫かわいがり
逆に罵倒や叱責
さらには虐待など
家の外では見せない言動が
家の中では制御されずに
暴発する
まさに、身が修まっていない状態です。
そして、身を修める以前の段階で躓いているでしょう。
これでは、自分の家を正常にすること、つまり齊える(整える)ことができないわけです。
少し先走りますが、このようなことでは国を治めることはできない、現代においては様々な組織の長としてふさわしい人物ではないということになるわけです。
誰でも、老人でも、壮年でも、中年でも、若者でも、年少者でも、家の内と外で言動の質が変わるというのは注意が必要です。
(もっとも、思春期など難しい年代はありますが)
自己を高めるのなら
自身の言動を省みて
身を修めることに努める
修身していかねばなりません
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>