此の学は己の為にす。固より宜しく自得を尚ぶべし。駁雑を以て粧飾と做すこと勿れ。近時の学、殆ど所謂他人の為に嫁衣装を做すのみ。〔耋一九〕
(聖人の学問は、自己の徳を高めるためにするものだから、自ら道を体得することを貴ぶべきである。雑駁な知識で自分を飾ってはいけない。近頃の者は、ほとんどが他人に見せびらかすために花嫁衣装を作るような学び方をしている。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
学ぶことは
自分の修養のため
雑駁な知識を寄せ集め
自分を飾るための道具として学ぶ
これは当然褒められるものではありません
立派なことを成し遂げた人たちは、若い時分から自らを律していたようです。
自分を飾るというような客観的な視点などなく、自分がやらねばならないことに集中していたようです。
一方で私のような凡人は、周囲を飛び交う無関係な情報に気を取られ、その魅力、楽しみ、好奇心に引っ張られ、自分が成すべきことを忘れてしまう日々となってしまいます。
昔の教育、社会、家庭環境では、躾や人としての教えについて、現代よりも格段に厳しく、自律の重要性や人としての道を習得しなくてはいけないという雰囲気が強かったようです。
戦後、個人の自由な意思が尊重されるに従って、その風潮はなくなってきています。
戦前の「人を造る教育」と、戦後の「個人の自由に委ねる教育」、どちらが良いのかは一口では言い切れません。
自由を手に入れ、自分の道を選んで、それを歩んでいくことができる人生
その一方で、価値観は多様化し、道徳心や正義感は崩れ去り、ついにはいかに生きるかについて迷う人も増えてきています。
十把一絡げの二者択一は現実的ではなく、かといって、それぞれの項目を取捨選択することもまた困難です。
気がついたらそうなってしまっているのです。
幼少のころに選択せよというのも不可能
だからといって、思春期から成人後までほったらかしにして自分で考えよというのも、良い人造り、国造りのためには無責任と捉えられませんか
あらゆる分野における
寺子屋
若い時から成人後、中年から壮年に至るまで、正直に、素直に、自分が成すべきことに邁進するために学べる場
そんな寺子屋のような場が求められているようです。
純粋な心で学び
成長していく人生
そんな人たちを創り上げる
地域や国
そして世界
望まれているはず