詩に云わく、邦畿千里、維れ民の止まる所と。詩に云わく、緡蠻たる黄鳥、丘隅に止まると。子曰わく、止まるに於いて其の止まる所を知る。人を以て鳥に如かざるべけんや。詩に云わく、穆穆たる文王、於緝熙にして敬止すと。人君と爲りては仁に止まり、人臣と爲りては敬に止まり、人子と爲りては孝に止まり、人父と爲りては慈に止まり、國人と交りては信に止まる。
(詩経(玄鳥篇)に王城の近く千里は文化も進み、生活も比較的豊かなので、民衆が集り、長く止まる所と思うのは当然である。
詩経(緡蛮篇)に「ゆったりとしてのびやかに黄鳥(日本の鶯に似た鳥をいう)が、丘のほとりに止まって鳴き続けている」とある。孔子は「鳥でさえ安んじて止まる所を知っているのに、人として止まるべき至善即ち正しい所を知らないでよかろうか」と言われた。
詩経(文王篇)に「深遠な風格のある文王は、ああ常に変わらず明るくて、敬み深くゆったりとしている」とある。そのように君主となっては仁政を施し、臣下となっては上を敬い自ら敬んで業務に精励し、子となっては只管孝行を励み、父となっては慈愛を旨とし、国人とは互いに信を以て交わるべきである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
止まるところ
邦畿とは王城、千里は四百キロほどのようです。
(現在一里は四キロと認識されていますが、ここでは十分の一程度とのこと)
お城の近隣であるほど文化も向上し、生活もしやすいでしょう。
そうなると、人は集まってくるものです。
黄鳥が緡蠻、つまりリズミカルに鳴いているのは安心できる丘です。
黄鳥は大変敏感であり、人の足音でさえ聞こえると、鳴くのをやめるそうです。
人間も
この場を動かない
この場所に徹すると
腹を括った人たちが
そこを支えているものです
次に、止まるべき至善、考え方について述べられています。
武王の父、文王の人柄はゆったり、やんわりとしていて、人物として輝いている、そのような〝 敬 〟に止まっている
自分を慎み、人々を敬っている情景となります。
王となれば〝 仁 〟
大臣となれば〝 敬 〟
人の子となれば〝 孝 〟
親になれば〝 慈 〟
そして国民同士は〝 信 〟
これが止まるところ
人として止まるところ
全くその通りと感じます。
同時に
現代ではほとんど見られず
語られることもないと
感じざるを得ません
ところで
人々の間になければならない〝 信 〟
これについてはどうでしょう
人が発する他人の悪口、その裏に何があるかについて、新渡戸稲造はその著書『修身』で次のように洞察しています。
十中の七、八までは、己を推薦するということが隠れており、残りの二、三分に、己の非を弁護することが籠もっておると思う。何か己が心に疚しいことがあると、人がこれを知っておりはせぬか、人に知られては自分の名誉に係わるから、とかく他事にかこつけて連累者を造ろうとすることがしばしばある。あの人はこんなことをしても、立派な位地を保っている。いわんや自分はこのくらいのことをしたとて構うものかといって、標準を自分の低い程度まで引き下げんとするのは折々見ることである。
(『修身』 新渡戸稲造著 角川ソフィア文庫)
鋭い見地であり、同感できます。
文明が発達するにつれて、知恵より知識が重用されてきます。
さらには、コンピュータのおかげで、人々の思考が衰えていくことも危惧されます。
文明が発達するにつれ、道徳は軽んじられ、法律さえ犯さなければ何をやってもよいというような風潮が広がっていませんか。
しかし、道徳が社会に根付き、仁義礼智信が充分に深い領域で為されるのなら、極端な話、法律は不要なはずです。
つまり、法律は最低基準なのであり、それさえ犯さなければというのは、相当にさもしい思考と言わざるを得ません。
道徳は人類の進歩の要です
数千年前から
人々の心に宿る〝 縦糸 〟です
時代によって変化する社会は〝 横糸 〟
〝 縦糸 〟が
止まるべきところに止まらず
〝 横糸 〟だけが動くと
織物はぐちゃぐちゃになります
人類の未来のためにも
この〝 縦糸 〟を
しっかりさせること
それが肝心です
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>