聖人は時を悲しみ俗を憫む。賢人は世を傷み俗を疾む。衆人は世に混じ俗を逐ふ。小人は常を取り、俗を亂る。嗚呼小人之を壊り、衆人之に従ふ。憫むと雖も疾むと雖も、竟に益無し。故に明王上に在れば即ち風を移し俗を易ふ。〔品藻〕
(「聖人というものは仁者・仁愛の人であるから、時代・風俗を悲しみあわれむ、同情する。つまり聖人は情熱的・情緒的にエモーショナルに時代・風俗を把握する。これに比べると、賢人はいずれかというと智の人、知恵の人であるから、賢人は時世を憂え風俗をにくむ。これではいかんというので時世・風俗を憂えにくむわけです。ところが一般民衆になると、“衆人は世の流れに流されて時俗を追いかけ求める”」。
まさにその通りですね。衆人というものは何かちょっと流行するというと、およそ自分の理性だの思想だの趣味だのというものを持っておるのだろうかと思うような変な真似を喜んでするものです。こういうのを世に混じ俗を逐ふというのであります。
「学徳の薄い者は一貫して変わらぬ世の中の法則をやぶり、人間の風俗・時代の風俗をみだす。ああ、学徳の薄い者はこれをやぶり、民衆はまたこれに従う。聖人や賢人がいくら悲しみあわれんでみても、それではどうにも仕様がない。だから賢明な君子が上にあるとすぐに風俗を移し易えるのである。」)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
聖人は
その時代の風俗を悲しんで憐れむ
やがて時代が変化することによって、その風俗は形を変えるでしょう。
つまり、いちいち目くじらを立てず遠い位置から憐れんでいる姿、時代の変化を長期的な視点で見ているようです。
賢人は
その時代の風俗を憂い心配し憎みさえする
時代の変化を待つことなく、社会を乱す風俗は排除しようと行動するのでしょう。
好ましくない風俗が生じる度に手を打つということは、時代を短期的な視点で捉えているようです。
小人は
その風俗を追い求める
風俗から得られる刺激に惹かれ、自らその中に飛び込んでいく。
そのときそのときが楽しければ良いという、極めて短期的な振る舞いが思い浮かびます。
ところで、新しいものや流行に飛びつくというのは、ビジネスの常識でもあります。
儲けのために、自分たちがその新しい風俗の先端に位置しようとしのぎを削っているのです。
そしてその後は、基本的に消費という領域に入っていきます。
最近、日本への観光客の消費が、モノ消費からコト消費へと変化しているそうです。
消費とは、その字のごとく消えて費やされる、つまり無くなることを意味します。
ある地域のお祭りが、楽しいコト消費だという認識が広がれば、多くの人が押し寄せます。
そして、一日、いや半日や数時間でそれらの文化はその観光客の内面から消滅します。
他方で
このお祭りの文化を
学ぼうとするのなら
その学ぶ人にとって
この土地に根付いた文化は
消えることがないでしょう
消費と学びとでは
その人にとっての
思考の深度のレベルが
全く違ってくるのです
恐らく、今後アッという間に世界中の文化や民族的要素は消費され尽くすでしょう。
その後は、小人として振る舞う人達にとって、流行や消費という刺激がなくなってしまいます。
小人(の要素が強い人、としておきます)にとっての行動基準は “ 刺激 ” なのです。
周知のように、未成年や若年層も、インターネットの普及によってどんどん“ 刺激 ” を得て、そして消費しています。
“ 刺激 ” 、人はこれに興奮してしまうのです。
そして
時代に流され続け
気がついたら死を迎える
何のために
生まれたのか
その疑問と諦めの中で
刺激を受けたときにこそ
自らをコントロールすることが望まれます
そのためにも修練が必要です
そして今
最も求められていること
それは私たち日本人
いや人類にとっての
いかにあるべきかという姿
〝 その姿 〟そのものです