士君子塵世の中に在り、排脱し得て開き、束縛する所と為らず。排脱し得て浄く、汚衊する所と為らざる、此れを之れ天挺の人豪と謂ふ。〔品藻〕
(立派な指導者はこの汚れた浮世の中にあって、その汚れを排除しそこから解脱して自分の天地を開き、浮世の汚れが少しも束縛するところとならない。排除し解脱して清浄、少しも汚衊(汚も衊も公にけがす意)―けがすところとならない、これこそ天がぬきんずるところの本当の人物・豪傑というのである)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
天がぬきんずるところの本当の人物
この世から排脱し
束縛されないこと
それを自然体で体現していくことなのでしょう。
例えば学校教育
近年の学校教育には、決して浸らないことが大切。
戦前の寺子屋を含む教育体制と、戦後の教育体制、言わずもがな、戦後の教育体制の方が劣っています。
各々の教育で育った人達が遺したもの、それを観察すれば火を見るより明らかです。
現代の教育が最先端などと言っても、人物へと成長する子供たちの意欲が全く違います。
眼を爛々と輝かせ、人としての本来の根源的な問題に触れる教育と、上辺だけの算術力や記憶力に依存するだけの教育。
教育現場が荒廃するのは当たり前のことです。
さらに退化は続いており、聖書者としての存在感を有していた教師が、働き方改革も後押しし、単なる労働者に成り下がってきている状況です。
天と通じる人物、豪傑は、このような環境に没入してはならない。
というよりも、真の人物はこのような環境に端から関心を持っていない様子もうかがえます。
力八分、いや六分程度で、適当(雑ではなく、条件や目的にかなうこと、相応しいことの意)に対応、こなしていくことが大事でしょう。
社会に出ても同じ
その組織の理念や使命を見定めて参画し
それに合致しない業務には
距離を置く
いわゆる“おりこうさん”と呼ばれる小人、そして現代の教育体制に没入した人達はこれができません。
体裁、自己保全、出世、同じ小人からの承認など、短期的な安住の地を求めてしまうのです。
本物は
大局を捉え
長期的な視点で
自分の生を燃え上がらせ続ける
やがて
人物として熟するに従い
力を出す時、場所、機会で
堂々と振る舞い邁進し続ける
大器晩成
六十、七十、はなたれ小僧
(平櫛田中 彫刻家)
セコセコ
ガサガサ
慌てふためく
小人たちとは一線を画すこと
天の意思と共に自らの使命を果たす
それを心掛けて日々を生きる
何も難しくはありません。
誰も知らない新しいことなど必要ありません。
ただ
天から授かった本質
そこに立ち還るよう
皆を導くだけのこと