人而無智者 不異於木石 人而無孝者 不異於畜生 〔實語教〕
人として知無き者は、木石に異ならず。
人として孝無き者は、畜生に異ならず。
(意訳:人であっても、智恵が無ければ木や石と同じである。
人であっても、親を想う気持ちが無ければ動物と同じである。)
<参考書籍:『實語教童子教 改版』馬喰町 錦耕堂山口屋藤兵衛板 解説>
知
知識や知恵
古から今に至るまで
必要かつ重要な要素
古代においては、自分の外側を把握するための知識が大切だったでしょう。
どこに獲物がいるか、どこが安全か、この実はいつ生るのかなど
それによって命が決まると言っても過言ではないほど、外側の知識は重要だったはずです。
しかし、そのような外側の知識は、現在ではほとんどの人が共有できるようになりました。
一方で、これから必要となってくるのは、自分の内側の知見でしょう。
人は多くの場合、良いことが起こると自分の力だと感じ、悪いことが起こると外側のせいにします。
これは都合が良い解釈であり、精神衛生上も良いかもしれません。
しかし、悪いことがもし自分の考え方や振る舞いに起因していたのなら、再度起きてしまう可能性があります。
教訓として生かすことができないわけです。
一方で、良いことが外部に起因するような場合、外的環境の変化にも関わらず自分の力が衰えてしまったなどと、必要以上に自分を卑下したり落胆したりする可能性もあります。
ちなみに、新渡戸稲造(教育者・農学者1862~1933)によれば、外部に起因する不幸と自分でつくる不幸では、圧倒的に後者の方が多いとのこと。
ただ世人は逆境の由来をよく考えぬから、天を怨み他を怨むのである
<引用:『修養』新渡戸稲造著 角川ソフィア文庫>
より良く生き抜くためには、自分の内側をもっとよく知り、その知識を知恵に高めていくことです。
孝
親を想う心
実は私は、親の愛情は恩送りとして捉えてきました。
つまり、親から受けた愛情や保護、支援の数々は、恩送りとして自分の子供に注ぐべきものであり、自分が親になったとしても、子から孝( 恩返し)を受けることには関心がありません。
これは動物、畜生と同じことなのでしょう。
一般的な動物の親は、生んだ子を一定レベルまで育て上げたら、あとは野に放ちます。
自分の子を群れから追い出すことさえ躊躇うことなどありません。
そのような行為が、自分たちの種を強く生き残らせるために必要なことであり、本能として授かっているからです。
少し言い訳になりますが、私も人の子、いまでも親の施設に顔を出して様子をうかがい、必要な対処を行ってはいます。
年々老いていく母の姿を慈しみながら、昔の思い出に浸ることも度々です。
以前にも述べましたが、親を大事に思わない、大切にしない人は、恐らく親思いの子に恵まれることはないというのは、道理であろうと感じます。
そしてまた、組織においては、自分の上司を批判したり疑ったりする人が昇進したとき、その人を慕い尊敬するような部下には恵まれないというのも必然なのでしょう。
自分が自己の内面を深く知り
確固たる人生観を持って
全ての人を思いやり
支え合っていく
これが人間社会に求められる姿であるはず