所謂身を修むるには、其の心を正しうするに在りとは、身忿懥する所有れば、則ち其の正しきを得ず。恐懼する所有れば、則ち其の正しきを得ず。好楽する所有れば、則ち其の正しきを得ず。憂患する所有れば、則ち其の正しきを得ず。心焉に在らざれば、視て見えず、聴きて聞えず、食いて其の味を知らず。此を身を修むるには、其の心を正しうするに在りと謂う。
(八条目に、「身を修むるには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒を含んでいる時は正しく判断することはできない。恐れを懐いている時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりする所があれば正しく判断することはできない。甚だ心配する所があれば、正しく判断することはできない。心が散漫して止まる所がなければ、視てもその真実が見えない。聴いてもその真実が聞えない。又食べても本当の味がわからないということである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
私は今月で61才になります。
まだまだ洟垂れ小僧でしょうが、今までの人生の中で色々なことに悩んだり、理由のない希望を抱いたりしたものです。
そして今、それらがほとんど現実化せず、心配は杞憂へと、希望は平凡へと置き換わったことを感じています。
その時々において、私の心は揺れ動きました。
悩んだり、怯えたり、ワクワクしたり、前向きになったり、しかしそれらの心模様は全て想像の世界で終わったのです。
何のことはない、状況が心を支配し、心がその状況を弄んでいただけの時間だったわけです。
近年、国際情勢が聞える度に、多くの人が暗澹たる気持ちに苛まれているのではないでしょうか。
しかし、耳をふさぐことは、正しい対処とは言えません。
また、一刻一刻、多くの人命が失われている中、国内の政争の道具にしようとする輩がいることも残念です。
これも真正面から対峙する勇気のない行為、目線を変えてその場を凌ごうとする小人の行為といえます。
皆で考え抜いて
解決することで
高いレベルの人類に
前進、進化すべきときと捉えたい
腹を立てても、恐れても、心配ばかりしても、批判に終始していても、突破口は見つかりません。
どんな状況でも真正面から対峙し、自分の〝 誠 〟をもとに突破口を見出すべきです。
綺麗ごとでは解決しない状況が、現実として眼前に展開されているのですから。
格物 - 物ごとの道理- をもとに
致知 - 新たな知恵に致る-
慎獨で
誠意 - 徳と誠を得る - を習得し
その上で正心 - 心を正す -
現象に振り回されずに
正しく見つめて考える
その心を養う
それが修身
- 己の身を修める -
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>