俗検有り。礼検有り。通達有り。放達あり。君子は礼検の中に通達し、騒士は俗検の外に放達す。世の識無き者専ら小節細行を以て人品を定む。大いに笑ふべきなり。〔品藻〕
(俗世間の慣習、ルールによってしらべしめくくるというのがある。礼法によってしらべしめくくるというのがある。― 例えばマナーとかエチケットなどというのは俗検であり、同時に礼検でもあるわけです。― ちゃんと俗検・礼検を守ってしかもそれに縛られないで自由自在であるというのがある。俗検・礼検にかかわることなく気ままにやって、しかも高いところに達しておるというのがある。君子は礼法をよく守って、しかもそれにとらえられないで自由に高いところに到達しておる。騒士 ― 文人・墨客というような人は世俗の慣習やルールを無視して、しかも高い境地に達しておる。世間の識のないものは小さな節操・些細な行為を以てあの人間はどうだこうだと品さだめする。これは大いに笑うべきことである)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
ここ数回の『呻吟語』の言葉は、「いま待望される宰相像」という講に収められています。
そのため、人物の分類や見定め方、その観点などについて多様な角度から述べられています。
今日の言葉の中の「騒士の在り方」は、興味深く感じます。
人と安易に協調せず、交友も丁寧さに欠けるような面も持ち、常に一人でいるような人なのでしょう。
しかし
やがて世に出ていく達人
ぶっきらぼうさや大雑把な言動、それをあげつらって批判するような行為は大いに笑うべきことであるとのこと。
そのような批判者は、世間に識の無い者、いわゆる小人の部類とされます。
若い頃、酒に酔った年長者のおじさん、おじいさんに自ら近づいて話しかけたものです。
酒のせいでこちらの胸襟は全解放され相手も心が開けっ広げになっているので、おもしろい話、人生経験の教訓など、昼間には聞けないような話が出てこないかと、期待しながら近づいていました。
また、素面のときでも何の気なしに、自分の気分次第で、何かに集中して取り組んでいる大物らしき雰囲気を漂わせる年長者に話しかけたりすることもありました。
ただ、いずれの場合にも大人物、いわゆる「騒士」と巡り合うには至っていません。
他方、いかにも常識人と見えるような人と話す機会があっても、これはという印象を受けることは多くありません。
君子のような人物となれば皆無です。
君子や騒士という人物には滅多に会えないものです。
特に、社会が近代化していくにつれて減っていくのでしょう。
そんな時代を生きる者としては
君子や騒士
そういう人物を
めざしたいと思いませんか
たとえ周りから
生涯凡夫だったと評されても
貫き通すべき
自らの意思を持って
生きて行きたいと思います