詩に云わく、彼の淇の澳を瞻れば、菉竹猗猗たり。斐たる君子有り、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し。瑟たり僴たり、赫たり喧たり。斐たる君子有り、終に諠るべからずと。切するが如く磋するが如しとは、學を道うなり。琢するが如く磨するが如しとは、自ら修むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なり。赫たり喧たりとは、威儀なり。斐たる君子有り終に諠るべからずとは、盛徳至善、民の忘るる能わざるを道うなり。
(詩経(衛風淇澳編)に「かの淇水のほとりを見ると緑の竹がみずみずしく茂っている。そのように教養豊かな君子がいる、それは丁度、骨や象牙を切り、丁寧にやすりをかけてなめらかにし、石や玉をちりばめて砂で磨き上げるようなものである。おうようで、ゆったりとし、明るくて朗らかな、教養のある人物は一度会えば生涯忘れることができない。切するが如く磋するが如しというのは、厭くことなく学び続けるということであり。琢するが如く磨するが如しというのは、自ら修養して徳を積むということである。瑟たり僴たりというのは、おうようでゆったりとしていながら、人はどことなくおそれを感ずる。赫たり喧(詩経には咺とある)たりというのはどことなくたちいふるまいに威厳があっていつまでも忘れられない。徳高く至善に止まる文王武王の風貌を民は長く忘れることが出来ないのを言ったのである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
若い頃から
私はある架空の人物と
いつか会うことになるだろう
いや会いたいと思っていました
その人物の姿形は不明確です。
会ったときには「やっとお会いできましたね」と挨拶するでしょう。
その人物のあり方、存在感、醸し出す雰囲気というのは、気品に満ち、自信に溢れながらも謙虚な振る舞い、そして大らかで、その場を包み込むようものです。
周りにいる誰もが尊重し、丁寧に接しようとします。
今日取り上げた一節、そこに描かれた〝 斐たる君子 〟に相当近い人物と感じます。
その人物に出会えたか
残念ながら未だです
そして、年齢を経るに従って、その人物は、実は自分ではないと考えるようになりました。
つまり、自らを磨き上げることで、その人物像に近づき、やがて自分がその人物になるということ。
やっとお会いできましたね
というのは
自分が本質で願っている
己の姿との邂逅なのではと
その出会いは
まだ遠い先にあるようです
自然に待っていても、その人物には近づくことさえできません。
自己陶冶、修養、修身、これらの過程なしには死んでも出会うことは叶わないでしょう
では具体的にどうするか
常に自分と向き合い、自分に正直に、正しいと考える判断基準で、正しい姿勢で、正しい順序で語り、振る舞うこと、これらを心掛けて実践することでしょう。
自分の仕事や役割において
自分はその道の
一流であると
自らに教え
導くこと
多くの優れたプロフェッショナルは、一歩家を出たら、あるいは自分の仕事を始めたら、自分が世界一であると意識せよと教えられたそうです。
その思い、思い入れこそが、日々を安易に消費することなく、自分自身を精進の道に向かわせるのでしょう。
高い視座
相応しい振舞い
それはまだまだ
さらにまだまだ
遠い
残された時間は決して多くはありません
日々、時々、秒々、
心掛け
その人物に出会う道を
真剣に進んでいこうと思います
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>