子曰わく、徳の修まらざる、學の講ぜざる、義を聞きて徙る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂なり。
(先師が言われた。
「徳が身につかないこと、学が究められないこと、正しい道を聞いても行うことができないこと、悪い行いを改めることができないこと、この四つが常に私の心をいためるものである。」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
通常、今日の言葉は孔子自身にとっての日々の反省項目であると解釈されていますが、孔子の門人たちに対する心配事とする解釈もあるようです。
言うまでもなく、私などはこのような反省する姿勢にさえ及びません。
例えば、夜寝る前に反省することがあったとしても、せいぜい四点の中の一つ、しかもそのうちの細かい要素に位置するようなことでしょう。
さらに言うと、その反省自体も間違った考えになっていることがあります。
例えば他人を助けたとします。
何らかのアドバイスを熱心にしてあげることで、その人を救えたとしましょう。
それは〝 徳 〟である、人として良いことをしたという風に自負するかもしれません。
しかし、相手にとってはそれが最善だったかどうかはわかりません。
例えば、アドバイスするのではなく、相手が気付くように仕向けた方が良かったかもしれません。
さらに、そうでさえなく、熱意など情的要素は捨て去り、単に現状打破のための処方箋を淡々と伝えた方が良かったのかもしれません。
様々なことが考えられる中、自分一人で悦に入っているのなら、それは決して〝 徳 〟ではないでしょう。
個人の判断は
とても狭いものです
しかしそれでも
反省をすることでしか
人は成長しないものでしょう
冒頭に記した、今日の言葉の二つの解釈、どちらが真実なのかによって状況は一変します。
孔子自らの反省という解釈の場合、この言を聞いた門人は身をすくめて下を向くしかないでしょう。
何と言っていいのか、どう返事すれば良いのか言葉を失います。
先生でさえそんなに謙虚であるのなら、自分たちは全くもって至らぬ身であると。
逆に、孔子が門人たちを憂いたという解釈なら、まだまだ未熟ですと謙虚に受けとめる者、これでも駄目なのですかと落胆する者、他人事のように受け流すだけの者(孔子の門人にはいなかったでしょうが)など、様々でしょう。
その状況に対して正しい解釈を行うということは、かように難しいものです。
軽々しく言葉を発することは
危険でさえあります
よくよく吟味し
判別せねばなりません
第一等 深沈厚重
第二等 磊落豪雄
第三等 聡明才弁
〔『人物』の条件〕
<引用:佐藤一斎「重職心得箇条」を読む 安岡正篤著 致知出版社>