三寳盡三禮 神明致再拜 人間成一禮 師君可頂戴 〔童子敎〕
三宝には三礼を尽すこと 神明には再拝を致すこと
人間には一礼を成すこと 師君には頂戴すべし
(仏様、仏法、僧侶には三度の礼を行って敬うこと。神様に対するときや神社では二度の礼を行うこと。人間同士の間柄では一礼を行うこと。先生や師にはきちんと礼儀を守った振る舞いを行うこと。)
<参考書籍:『實語教童子敎 改版』馬喰町 錦耕堂山口屋藤兵衛板 解説>
〝 三宝 〟とは、仏教において、仏宝、法宝、僧宝をさします。
仏宝とは、仏という宝を意味し、お釈迦様のことです。
法宝とは、法という宝を意味し、仏教による教えのことです。
僧宝とは、僧という宝を意味し、仏法を人々に正しく伝える僧侶、その人を宝としています。
この〝 三宝 〟には、三回の礼をするようにということが最初の教えです。
なお、神事では、お供え物を載せる台、具体的には正面と左右に透かしの彫りがある脚、その上に四角のお盆を乗せた台を三宝と呼んでいます。
次に〝 神明 〟とは、神、天照大神のこと、またそれを祭る神社や神明社のことです。
再拝とは、礼拝を二回行うこと。
つまり、〝 神 〟に対しては、二回の礼をするようにという教えです。
そして〝 人間 〟、これは私たち人間のことであり、一回の礼を行うようにという教え。
最後に〝 師君 〟、これは先生や師と呼ばれる人のことです。
頂戴という言葉が使われていますが、仏教では仏の教えである経典を頭の上に載せ頂くことを意味し、最高の敬意を表す行いを表します。
総じて、先生や師には、きちんと礼儀を尽すようにという教えと解釈できます。
仏教からの教えに重点が置かれていますが、これは仏教を厚く信仰した聖徳太子、特に「篤く三宝を敬え」と定めた〝 十七条憲法 〟の流れなのでしょう。
これらの教えは、当時の人々にとっては常識的なもの、かつ重要な振る舞いであったと考えられます。
これらの礼を欠かしてしまうと、きちんとした人物とは見なされなかったのかもしれません。
翻って現代、人間同士、そして先生への礼についてかなり乱れていると感じます。
人間社会、仕事上の付き合いにおいて、きちんとした礼を行うことができる人を見かける場面は多くありません。
頭を下げているような姿勢をとりながら目線は相手を見たままであるとか、首を軽く折り曲げるだけで済ますような人が多いと感じます。
もちろん、地位や役職の高い人であれば、その割合は低くなります。
先生への礼ですが、いわゆる学校の先生や教授という方の教示の内容に重みが感じられなくなってきているからではないでしょうか。
いわゆる「時務学」一辺倒で、感情として〝 敬うべき対象 〟になっていないように感じます。
論理よりも感情が優先するのは、人の常です。
それが時代の経過とともに大きくなってきたせいではないかと感じます。
ただし、礼を忘れるということは、自らを見失うことを表します。
「天上天下唯我独尊」というお釈迦様の言葉からもわかるように、私たちはこの世でたった一人しかいない貴重な存在であること、それはすなわち、自分は相対的ではなく絶対的な存在であることを意味します。
一人ひとりが絶対的な存在として生きていくのなら、同じく絶対的な存在である他者には不快さを感じさせない振る舞い、正しい礼儀で対応するのが自然です。
それができないのは、自分の立ち位置が見えていないということ。
つまり不真面目な礼儀とは、自らが絶対的な存在ではないという自信の無さの表れであり、相対的な存在に安住したい、甘えていたいという深層の思いが顕在化している証といえます。
人生を充実させるには
時と場合を踏まえた
正しい振る舞いが
土台にならなければ