故末代学者 先可案此書 是学問之始 身終勿忘失 〔實語教〕
かるが故に末代の学者、先ずこの書を案ずべし。
これ学問の始め、身終るまで忘失することなかれ。
(以上のことから、これから学ぶ人たちは、まずこの書を読むようにしてほしい。
この書こそが学びの始まりであり、一生が終わるときまで学ぶことを忘れないように。)
<参考書籍:『實語教童子教 改版』馬喰町 錦耕堂山口屋藤兵衛板 解説>
(今日の言葉は、『實語教』の最後となります。)
實語教、そして多くの古典には〝 知恵 〟が詰め込まれています。
そして、人によって解釈が違ったり、また同じ人でも学ぶときの心構えで違った解釈になったりすることもあります。
さらには、読んでいくうちに、理解しがたい、腑に落ちない言葉が出てくることもあります。
その言葉が気にかかり、しばらく経った後、何かのきっかけで「なるほど」というように腑に落ちる、身体に染み渡ることもあります。
つまり、思考の鍛錬によって視野が広がり、新しい知恵を得られるわけです。
すると、今までの色々な言葉についても、狭い解釈だったとか、お門違いな解釈をしていたというような気付きも生まれます。
このように、紆余曲折さえも味わいながら、人としての幅、奥行き、深さが拡大していくのです。
人間としての〝 器 〟が大きくなるというわけです。
一度考えたのに後々修正するなど、効率が悪いので最初から最適な解を教えるべきだというのが、近代の流れでしょう。
しかし、それでは学びが画一的になり、ひいてはその人自身も画一的な存在となってしまうかもしれません。
〝 人物を練り上げる 〟
より良い人物になること
より良い人生を送ること
このことから
どんどん遠ざかってしまいます
以前、学校教育に宗教を加味しなければという声が上がり、ある地域で取り組み始めたとのこと。
すると、ある学校では日蓮宗が、こっちの学校では親鸞宗が、あっちの学校ではキリスト教が、というように各校が一宗一派を取り入れるようになったそうです。
この状況は教育に資するとは言い難く、入信させるつもりか、洗脳するつもりかと文句が出てきかねない状況です。
しかし当時の教育者は、自らが学ばされてきた画一的教育、その中の「宗教学」を基にした考えしかできず、結局どうすれば良いかわからないわけです。
子供の成長を考えれば、それぞれの宗教の考え方を理解し、その本質的な部分、核の部分を自分なりに咀嚼、理解して、日々の生活に役立てていくことが望ましいでしょう。
それであれば、人としての成長に資するものになるはずです。
ところが、あたかも校庭が寂しいから樹を植えようとしたとき、桜なら桜ばかり、松なら松ばかりというように、一木一草を植えるようなことになったわけです。
(出所:『人物となる道』安岡正篤著 致知出版社)
人生、そして世の中は画一的には解釈できません。
逆に言えば、多様で複雑であるからこそ、より良い方法や挑戦の必要性に気がつくのです。
残念ながら、画一的で狭い視野では、気づきはほとんど生まれないでしょう。
「1+1=2」
ここから始まる時務学も大切です
しかしそれ一辺倒では
幅が狭く、奥行きは浅く、深さの無い
淡白な人、極端には浅薄な人ばかりを
生み出しかねません
幼少時から人間学に触れる機会を設ける
それは
一人ひとりの人生を豊かにする
そのことにつながるはずです