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COLUMNSブログ「論語と算盤」

徳は本なり

2026年7月28日

のたまわく、三人さんにんおこなえば、かなら師有しあり。ものえらびてこれしたがい、其の善からざる者にして之をあらたむ。〔述而第七〕

(先師が言われた。

「三人が行動を共にしたら、必ず自分の先生になる者がいるものだ。そのよい者を選んで素直に従い、悪い者を見ては、反省して自ら改める」)

<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

三人寄れば

一人は師

 

 

 

謙虚な見方をしても、やや言い過ぎていないかと感じます。

 

しかし、古の時代においては、そういうものだったのでしょう。

 

本学ほんがく 〟~徳、仁、慈など~を中心に文化が築かれていった時代は、師と認められる人物がその割合でいたはず。

 

現代は、〝 末学まつがく 〟~財、技術、効率など~の時代と言え、三人寄っても人間学としての師は見当たらないのかもしれません。

 

 

 

『大学』に、「徳は本なり。財は末なり。本を外にして末を内にすれば、民を爭わしめて奪うことを施す。」とあります。

 

確かに今の時代は、〝 本 〟(本学)をないがしろにして〝 末 〟(末学)を重視した結果のように、世界各地で争いごとが多発しています。

 

人間は段々驚かなくなる、即ち純真熱烈に感じなくなる。麻痺してくる。善にも、又悪にも、何ともなくなって来てをる。夫婦親子兄弟が殺傷する世の中を二十世紀人は案外平然として暮らしてをる。秦の始皇も隋の煬帝ようだいも、アッチラもネロも、マラー、ダントン、ロベスピエールもたまるやうな暴力的罪悪を一向罪悪と言はぬどころか、それを人民の解放とか正義とかうそぶくやうな政治が傲然ごうぜんとして行はれてをる。人類が何千年もかゝって漸く造りあげてきた文明が恐ろしい破滅に瀕してをるのに、文明人がそれを驚かない、恐れない。そもそも人間が驚かうにも、驚くその自我といふものを恐ろしく喪失してをるのである。

 

(『百朝集』安岡正篤著 致知出版社)

 

 

 

歴史は繰り返さないが

韻を踏む

 

(マーク・トウェイン)

 

 

 

 

やや話が逸れましたが、現代でもよくよく観察すれば、三人の人間がいれば学ぶべき内容が一つや二つは見つかるでしょう。

 

 

その良い要素を選んで見習い

 その悪い要素を捉えて自省する

  人そのものではなく要素を捉える

 

 

 

社会の悪を指摘したり、他人の罪を憤ることは痛快であろうが、自己の魂を吟味することは遥かに苦しい。我々は自ら修めることによって初めて、我々が依って以て生きている小範囲に秩序と健全とのオアシスを造ることができる。

 

(『人物となる道』安岡正篤著 致知出版社)

 

 

 

他人をあげつらっても、なんの成長も、成熟もありません。

 

 

 

他責でなく

自責で

 

うまくいったら

おかげさま

 

 

徳は本なり

 

これこそが信念になり得ます