葉公、孔子を子路に問う。子路對えず。子曰わく、女奚ぞ曰わざる、其の人と爲りや、憤を發しては食を忘れ、楽しんでは以て憂を忘れ、老の將に至らんとするを知らざるのみと。〔述而第七〕
(葉公(楚の葉県の長官)が、先師の人柄について子路に尋ねたが、子路は答えることができなかった。
先師はそれを聞かれて言われた。
「お前はどうしてこのように言わなかったのか。『道を求めて得られないときには自分に対していきどおりを発して食事も忘れ、道を会得しては楽しんで心配事も忘れ、そこ迄老いが迫っているのも気付かないような人だ』とね」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
子路はなぜ
答えられなかったのか
師の人柄を語ること、これは確かに難しいし、気が引けます。
たとえば私なら、教えを授けてくれる師、やはりその人柄なりを知りたくなります。
どうしてこういう考え方ができるのか、何がこの人を師として仰ぎ見られる人物に押し上げたのか、など。
しかし
人となりを言葉にするのは難しい
2年ほど前、すでに他界された人について、年長の人と2人で思い出話をする機会がありました。
その亡き人とは、お互いが尊敬し、一種の憧れさえ抱いており、この人にならついていけるというような、仕事上の上司でした。
ところが、お互いが話す内容には、具体的というか、何かを確定するような言葉が出てきません。
言えるのは、その人が行ったことや言ったこと、そしてそれを自分がどう思ったかということばかりでした。
考えてみれば、通夜での精進落しの場も同じことではないでしょうか。
亡き方を偲ぶ
それはその人の
思い出話をすること
分かった風の不遜な態度や、身の程知らずと思われるような下手な振る舞いは決してできません。
孔子はこのとき存命なので、なおさらその人となりを論評することなどできないでしょう。
さらに子路は、孔子からの使いで来ており、楚の王族である葉公に対して軽はずみな言動はできません。
子路は、正義感が強く勇猛果敢で、直情型の人物と評されていますが、それでも躊躇したのです。
その困惑した心情が伝わります
一方で
孔子の言にも
趣を感じます
低い目線で、自分を客観的に見ているようで、また決して謙遜というものでもなく、自然で素直な言と感じます。
子路は、大変素晴らしいというような抽象的で表面的な表現はすべきでないと思ったでしょうが、孔子もまたそんな紹介はしてほしくはなかったでしょう。
かといって、孔子が言うような紹介をするのが良いのか、そしてまた、できるのか
今日の言葉は
孔子の
素朴で正直な人柄
それを表したものと感じます
人を評価することなどできないもの
やはり素のまま
自然のままに
今日という
一日を生きる
それが一番です