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COLUMNSブログ「論語と算盤」

帰すべき真心

2026年5月26日

人はどうたる時、全然ぜんぜんたる本心なり。やや長ずるに及びて、私心稍生ず。すでに成立すれば、すなわさらしゅうきょうたいして、しこうして本心ほとんほろぶ。ゆえの学をす者は、まさ斬然ざんぜんとして此の世習をりて、もって本心にふくすべし。れを要と為す。〔耋五一〕

(人は幼い時、無垢むくで完全な真心を持っている。やや大きくなると、私心というものが少し芽生めばえてくる。そののち一人前になると、さらに世俗の習慣が身についてきて、けがれのない真心はほとんど失われてしまう。したがって、聖人の学問をする者は、世俗の習慣をきっぱりと断ち切って、真心に帰るようにしなくてはいけない。これが重要な点である。)

<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

 

今日の言葉は

長い間

気にも留めていませんでした

 

 

日々知識を増していく自分、それはきっと成長していくことと確信していました。

 

確かにそういう一面もあるのでしょうが、引き換えに自分の本心、純粋で無垢な真心は、心の片隅に追いやられてしまう。

 

 

 

十代のころ、今日は爽やかだねと言葉をかけてくれた人がいました。

 

私は実感として、全くピンときませんでしたが、今でも記憶しています。

 

そのとき、その人から見た私は、おそらく純粋、無垢な素の心が現れていたのかもしれません。

 

 

 

現在、私が発する言葉や言い回し、それは自然と、世俗の中の気に入ったものをうまく当てはめようとしたものです。

 

だからなのか、人前でしゃべることは苦手な方ではありません。

 

 

しかし

どれくらい伝わっているのか・・・

 

 

 

話が上手でなくても、朴訥ぼくとつとした語りであっても、人の心を震わすことはできます。

 

それはきっと、真心が口から現れてきているからなのでしょう。

 

 

 

 

年をとると

 段々と身体と心が退化し

  子供の状態に戻っていく

   そんな話をどこかで聞きました

 

 

 

冒頭に書いたように、長い間気にも留めていかなかったこと、それがどういうわけか気になるようになってきたというのも、実は大切なことを思い出させてくれている、そういう年代になってきたからだという気がします。

 

 

おもしろさや興味

 思いやりや気遣い

  自分の感性と他者への情

   一層高めていきたいと思います

 

 

 

真心

素心

そこに立ち返ること

 

それが

天から授かった

自分そのものであるから