子曰わく、訟を聽くこと吾猶人のごときなり。必ずや訟無から使めんかと。情無き者は、其の辭を盡すを得ず。大いに民の志を畏れしむ。此を本を知ると謂う。此を本を知ると謂う。此を知の至りと謂うなり。
(孔子が、「訟を聴いて判決を下すのは自分も他の裁判官と変わることはない。然し私の究極の願いは訟の無いような世の中にすることだ」と言われた。真実のない虚偽の訟は、結局言葉を尽して言い張ることが出来なくなるものだ。要するに民が自ら省て、自ら畏れて訟が出来なくさせる。これを人の道の本を知るというのである。これをまた知の至りともいうのである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
今日の言は
人が進化するか
退化するかの
分岐点とも言える内容です
『大学』のこれまでの記述は、三綱領である明徳、親民、止至善について、古くから信頼されてきた様々な教えと共に語られてきました。
その中身は、八条目の最初となる、〝 格物 〟そして〝 致知 〟に通じるものがあります。
そして、今日の教えは〝 格物・致知 〟が全ての基という重要な位置づけであることと、その理由が示されています。
伊與田覺師は、著書(下記)の中で次のように言っています。
昔は田舎に長者と呼ばれる人がいて、何か争いごとが生じてもうまく折り合いをつけてくれたもの。
しかし最近はほとんど見かけなくなり、代わりに弁護士が増えてきた。
さらには、アメリカを見習おうと弁護士を増やすような気風まで生じていることは、まさに本末転倒であると。
人類が本能的に持っている〝 知恵 〟に至ることを避け、表面的な“知識”で白黒付けようというのは、場当たり的でモグラ叩きのようなものであり、本質的な対応とは言えません。
近年はその弊害、言うまでもありませんが、アメリカの衰退が顕著です。
分断と非難、専制と暴力、下手をすると国家が崩壊してしまうのではと危惧します。
争いごとの対応と言う点においても、日本は盲目的なアメリカ追随という、誤った方向へ進んできたと言えます。
早急な進路変更、当然ながら共産主義や社会主義は論外として、真の意味での民主主義への前進が必要です。
今日の言葉は、人が持つ〝 情 〟の深奥を呼び起こして争いごとを無くすこと、つまり人の〝 情 〟を活かすことが最も効果的であり、しかも自然な方策であることを改めて気づかせてくれます。
さらに伊與田師は、王陽明についても触れています。
あるとき、親とその子が争う裁判があったそうです。
両方とも譲らないため裁判官が判決を留保していたところ、王陽明が次の一言で解決、和解となりました。
舜は天下の大不幸者なり
瞽叟は天下の大慈父なり
舜とは古代の五帝に数えられる王様です。
舜の父である瞽叟は全盲であり、妻に先立たれ後妻をもらいます。
瞽叟は後妻との間に授かった子を溺愛し、後妻と共に舜を虐めて殺そうとまでします。
ところが舜は、父の振舞いの原因は全て私の親不孝であるとし、父に対してさらに孝を尽したのです。
この話を聞いた当の親子は互いに自分の行いを顧み、心に恥じるところがあったと反省すると同時に、人としての道に気付いたのです。
両者ともに訴えを取り下げ、もとの仲の良い親子に戻ったとのこと。
此れを知の至りと謂うなり
ここから大人への道が始まります
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>