無識の士は三耻有り。貧を耻ぢ、賤を耻ぢ、老を耻づ。或るひと曰く、君子は独り耻づる無きか。曰く、親在りて貧しきは耻なり。用賢の世にして賤なるは耻なり。年老いて德業聞ゆる無きは耻なり。〔品藻〕
(識 ― 是非善悪を弁別する知恵のない指導者は三つの恥がある。貧乏をすることを恥じ、地位、身分のないことを恥じ、年をとることを恥じる。ある人いう、「君子だけは恥じることがないのでしょうか」と。それに対して私はいう、「いや、君子にも三つの恥がある。親がおって貧乏するのは恥である。賢人が用いられる世の中でありながら(用いられないで)身分が卑しいのは恥である。年をとって徳に基づく行業が聞えないのは恥である」と)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
今日の言葉には
不勉強なせいでしょう
やや違和感を感じます
あるいは
時代の変化のせいでしょうか
まず、貧乏が恥とのこと
〝 ぼろは着てても心の錦 〟 が否定されているようです。
しかし私は、指導者が自身の富に無関心なことについて、特に恥とは思いません。
逆に現代の指導者には
金を得ることが目的であり
この世を良くしようという
志の無い者が多いのではと
その姿そのものこそ
恥
二つ目、地位や身分が無いことが恥とのこと
これも同じく
地位を得ることが目的で
周囲を懐柔し
その場だけの賛同を
得ようとする者が多いのではと
長期的視野が無く、眼前の事象にのみ対応しようとする姿は迎合そのものです。
国民自身も惰性に任せる気質になって、善、徳、義がどんどん失われてきているようです。
そして、そういう気風を促進しようとする輩も増えてきているようです。
法さえ犯さなければ
どんな事も許されるとして
金や地位を得ることに躍起になっている姿
このようなさもしい姿こそ
恥
三つ目、年を取ることが恥とのこと
役目が終ればこの世を去る、そういう姿勢は潔いと言えます。
耄碌してただ生きているだけというのは、当の本人が一番辛いのかもしれません。
年を取るということが恥ではなく、年を取ろうが若かろうが、いかに生きるかが重要ではないかと感じる次第です。
君子の恥
現代は賢人が用いられる時代とは言えず、また徳に基づいた行業が聞えないというのは、逆に人々が徳の行業に気付くことができなくなっているからではないでしょうか。
現代は陰徳を積むべき時代と思います。
残る一つ、親がいて貧乏するのは恥とのこと
これは、その本人の意欲が重要となるでしょうが、現代では多くの人にその意欲が萎えているようです。
以前、次のような記事を読みました。
ある人の家庭は、両親が朝早くから夜遅くまで油まみれになって仕事をしているのに、長年貧乏を脱することができなかった。
これは社会構造が悪いに違いないと思い、彼は成人後、一所懸命働き、結婚し、家を建て、子供にも恵まれるなど、人並の生活を得ることができるようになった。
そして、両親に中元や歳暮などの贈り物を行っていた。
あるとき彼は気づく。
両親に贈り物をしているけれど、お礼の言葉が一切ないことに。
感謝する心を持ち
それを表現する
それが幸せにつながるのでは
宇宙
地球
大自然
国
地域
家族
そして自分自身
全てに対する感謝
それができない
それこそが
真の恥ではないでしょうか