子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を濟う有らば如何。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。〔雍也第六〕
(子貢が尋ねた。
「若し博く恵みを施して民衆を救う者があれば、どうでしょう。仁者というべきでしょうか」
先師が答えられた。
「仁者どころではないよ。必ずそれは聖人であろう。然しそれは、堯、舜でも常に心をいためられた。仁者は、自分が立とうと思えば先に人を立て、自分がのびようと思えば先に人をのばすように、日常の生活に於て行う。これが仁を実践する手近な方法だ」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
人を救う
それは聖人
今日の言葉にある、恵みを施すといのは、ややもすると金銭的な施しのことかと感じます。
しかし、そう難しく考える必要はありません。
仏教の教えでは、「無財の七施」として、お金を持っていなくてもできる七つの施しが示されています。
眼 施・・・温かい眼差しで相手を見る
和顔施・・・やさしく穏やかな笑顔で接する
言辞施・・・やさしい言葉で話しかける
身 施・・・荷物を持ってあげるなど、身体を使う施し
心 施・・・やさしく思いやりのある心での施し
床座施・・・席を譲ってあげる
房舎施・・・雨風をしのげる場所を与えてあげる
今日の言葉にも通じます
自分よりも他者を優先して
良い状態にしてあげること
一人ひとりが
このような心掛けで他者に接すれば
それだけで世界は平和になるでしょう
しかし現在、全くそうはなっていません。
古の世も同じだったのではないかと思われますが、今日の言葉のように、聖人、君子、仁者を敬い修養を積む人の割合は、今よりもずっと多かったでしょう。
現代では、耳に入ってくるほとんどの言葉が表面的です。
十把一絡げ、最大公約数的な表現、テレビやSNS、政治家の演説など、聞いていて心に染み入る言葉は皆無です。
多くの人は単なる活字として、聞き流していることでしょう。
ある小学生が登校時に何度も吐いてしまう場合
医学的には
特に朝は交感神経が十分に働かないので
胃腸が不調を起していると判断するそうです
他方
心理学的には
母親から成績を上げるよう
毎朝プレッシャーをかけられ
それがストレスになっている
それが原因であると見抜くそうです
現代医学は
前例をそのまま当てはめる
十把一絡げな対応
心理学は
個々人の状態を捉えて
固有の原因を見出そうとする対応
どちらが望ましいか
他者と接する時には、決して表面的なもので終わらせたくないものです。
心の深い部分でつながり、心の琴線に触れるような思いやりを込めたい
一人ひとりが
「無財の七施」を実践していく
巷に溢れる
表面的で心の通わない言葉や情報に
振り回されることなく
心の深いレベルで手を取り合い
協力し合う姿こそが
本来の絆であるはず