聖人、人心を感ずることは、患難の處に于て更に験あり。蓋し聖人は、平日仁漸み義摩し、深恩厚沢、人心に入る者化す。難處に臨むに及びて、倉卒の際、何ぞ思ひ圖るに暇あらんや。見成の念頭を挐り出し来りて、便ち以て軀を捐て義に赴くに足る。「我れは此れを以て名を成すなり。我々は此れを以て君に報ゆるなり」と曰ふに非ず。彼は固より亦自ら其の何の為にして迫切なること此に至るかを知らざるなり。其の次は軀を捐て、而して志報ゆるを圖るに在り。其の次は感じ易くして而も終ふること難し。其の次は厚く賞して以て其の感を激す。噫、此に来りて上下の相與みすること薄し。交孚するの志解けたりと。嗟夫、先王は何を以て此れを人に得たるや。〔治道〕
(すぐれた人が人の心を動かすことは患難のところにおいて特に一層效験がある。思うにすぐれた人は平生から仁漸み義摩し(漸はすすむ、摩はする・せまるで、民を感化して次第に仁義の道に入らしめること)―仁義の道が薫染し、恩沢が深く厚く及んで、それが人の心にはいるにつれていつの間にか人は感化される。難処に臨むに及んで「それっ!」というような遽しい際に、人間はどうして思慮をめぐらすことができようか。現在(見成)頭の中にできておる考え方をとらえて、それに従って勇敢に身を捨てて義に赴くだけである。「自分はこれによって名を成すのである。自分はこれによって主君に報いるのである」という、そういう理屈や議論の問題ではない。彼はもとより自分がどうしてこういうところへ思い切って直ちに飛込んだのであるかというようなことを思慮分別する暇はないのである(平生の修養・薀蓄によって反射的・直覚的に行動するだけである)。
その次は身を捨てて平生の恩義に報いようという道義的感激から行動に移す。その次は感激・興奮するけれども終わりまで続かない、途中で投げ出してしまう。その次は(道義的行動をするように)厚く賞して感情を刺激する。こういう欲得づくになるというと、上と下とが共に相くみ合うことが薄いといわなければならない。互いにまことを以て物事を成そうという志が解けてなくなってしまっておる。古の立派な天子はどうしてあのように(無意識に身を捨てて、義に赴くという風に)人間を育てることができたのであろうか。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
安岡師曰く
世教は本当に大事と思う
「教というものを、人間の道、道義的精神というものを平生から培っておかなければいけません」
そして
「世教が廃れると、人間が不幸に陥るだけではなく、その国家・社会は意外に早く混乱・破滅するものです」と。
日本もそうですが、世界の国々も同じように、人間の道や道義的精神というものがどんどん退廃しているようです。
そして、秩序や道徳が軽んじられ、傍若無人な振る舞いが人々の関心をひくような時代になってきています。
なぜでしょうか
人類は確かに進歩しているのでしょうが、他方で人間が歩むべき道という意味では、良くない方に向かっているようです。
文明が発達していなければ、ラジオやテレビ、インターネットやSNSなどは無く、人々は自分の行動や生き方を自分の心で決めて進むしかありません。
そんな状況の下では、もっと良い判断や行動があるはずだと、知恵を働かせることになるでしょう。
しかし、文明、メディアなどが発達してくると、他の人もこんな程度なんだ、じゃあ自分もこのくらいで良いのだと、深く洞察しようとせず安直に納得したり、刺激が得られる情報ばかりを追いかけ、やがてはそれに引き摺り回されたり、そんな経緯なのでしょうか。
人間は便利さを追い求めるものですから止められない現象なのでしょうが、それを黙認するのなら、世界には無秩序や争いごとが広がり、大方の予想通り破滅に向かうという気がしますがどうでしょう。
人は環境に強い影響を受けてしまいます。
このような人間の性を認識した上で、情報から遮断された中で自分と向き合う時間を計画的に設ける必要がありはしないかと思わずにいられません。
文明の光と闇、人心の強さと弱さ、現状を客観的に把握、認識し、そこから対処していくことが望まれます。
〝 覆水盆に返らず 〟と言われます。
しかし人の心は
純粋で慈悲のある
仁義礼智信という
本来の状態に還ること
それが可能だと思います