子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。
(先師が言われた。
「中庸の徳というものは、完全で最高だ。然し一般の人の間に行われなくなってから久しいなあ」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
中庸の徳
今まで
色んな場面で耳にしてきた言葉
どちらかに偏ることなく、中程の判断、思考、言動が良い、無難だと感じています。
吉田公平著『論語』(タチバナ教養文庫)には注釈があります。
それによると、中庸とはバランスの取れた道義の感覚とのこと。
朱子が「偏らざるこれを中と謂い、易らざるをこれ庸と謂う。中とは天下の正道、庸とは天下の定理」と定義し、定着したとのこと。
孔子は、人々が中庸の徳を失ってから久しいとのこと
現代もそんな状態という気がします。
というよりも、古より今に至るまで、ずっと中庸でない状態に我々の社会が位置しているのかもしれません。
あちらに振れればやがてこちらに振り戻され、その変化の中程が最も居心地が良いという感情もありそうです。
昨今、男女平等、LGBTQの権利、SDGs、言語の英語化などの標準化が、一見、道徳的な意味とともに押し寄せてきています。
これらの風潮は
本当に道徳的で正しい道なのでしょうか
例えば平等
そもそも根本から相違している存在を、無理に形だけ平等にしようとすると、逆に不平等になりはしないか
男女の場合、私は平等よりも〝 調和 〟に主眼を置くべきと感じます。
言語の英語化
母国語と根本的に文法の違う英語を必死で学んでも、所詮ネイティブには敵いません。
世界の民衆は
須らく
ディスアドバンテージに向かって
走らされているのでは
平等化や標準化は
民衆を扱いやすくするため
それが目的なのか
現代におけるこれらの風潮は、偏った方向へ人々を動かしているようです。
もっと違った者同士が
調和を図るようにしていく
必要がありませんか
もっと違った物同士を
調和させるようにしていく
必要がありませんか
あらゆる存在が調和した状態こそ
最も美しいはず
宇宙で唯一の
美しいこの地球
お互いが助け合い調和する姿
それが最も似合う景色でしょう